海が好き
海が好き。
山か海かと聞かれたら、息継ぎしないで答えられるくらい。
それなのに、どうして好きなのか理由はない。
大阪で生まれ育った私には、海の近くで暮らした記憶はない。ただ、子どもの頃、夏になると、いつも海水浴に連れて行ってもらった。お陰で、夏休みの絵日記には必ず海の絵があった。
小学校3年生の夏。深い緑が映る日本の海を訪れた。
紺色のスクール水着にオレンジ色のビーチサンダルで海辺に立つと、湿気を帯びた磯の香りが一気に私を抱きしめる。爽やかさとは違う、濃厚でじっとりとしたと肌にへばり付くような海からの抱擁。
大きく息を吸い込むと、体の中まで潮風が入り込み、すっと鼻から抜けていく残り香を楽しむ。
足元にピンク色の桜貝が光る。
小さくて可愛い。砂浜に小さな穴を作って拾った貝を集めていたら、そこまで来るはずのない波がやってくる。宝石入れが海水で溢れ、せっかく集めた桜貝が砂に吸い込まれていった。
ビーチサンダルを浜辺に脱ぎ散らかす。
ザリッ、ザリッと軋む砂を踏みながら走って海に入ってみる。あっという間に足元を取られて転んでしまう。転んだ拍子に口に入った水が、塩の塊を舐めたようにひどく塩っ辛かった。
海の底が見えないのは不安で、浅瀬で飛び跳ねては、しゃがんで頭まで潜る。飛んでは潜る。また飛んでは潜る。その繰り返しを飽きることなく繰り返す。
海辺の太陽は容赦なく肌を焼く。肌に張り付いていた砂が乾いて、取り残された潮だけが波の模様となって残った。
お昼は海辺の屋台でカレーライスが定番。煮込みすぎて溶けてしまったのか、最初から入っていないのかもしれない肉片のないカレーライスを食べる。その傍らでは、父が、氷水から出したばかりの冷えた缶ビールでゴクリと喉を潤す。
「ひと口、飲んでみるか?」
父は、たまにこういう悪戯な目をする。
「アカンよ、そんなもん飲ましたら!」
慌てる母を無視して私は缶ビールに口を近づけた。
舌先を濡らしただけなのに、始めて口にする金色の液体の苦味が、口蓋の隅々にまで広がった。
「ぐぇ、苦っ!」と顔を曲げる私。
してやったりといった笑顔で私を見る父。
*****
同じ海の端っこの海辺に立つ。
海はいろんな顔を持つ。地中海の海は透明で蒼い。日本の海と同じ水が入った大きな水槽なのに。
潮風が優しい。日本の海のように濃厚なオモテナシはないけれど、大げさなくらいに明るい太陽の光と一緒に出迎えてくれる。
砂浜に足を埋めてみる。
砂がホカホカと温かい。
ゆっくりと片足を上げると、足の指と指の間からサラサラと砂が逃げていく。
もう片一方の足もやってみる。
サラサラ、サラサラ……
逃げ遅れた砂が少しだけ足にくっついているのを愛おしく払い除ける。
水際に立つ。
濡れた砂の上に足跡をつけてみたけれど、やってきた波にさらわれてしまった。
もう少し海の中に入ってみる。
波が寄せる度に、足が砂の中に少しずつ沈んでいく。重くなった足を水の中へ蹴り出すと、足を取り巻く砂が水の中で踊りながら、すぐにまた沈んでいく。
もう一回見てやろうとしたら、意地悪な海が大きな波を連れて来た。よろけた瞬間に頭から海の水を被ってしまった。口に入った水はやっぱり塩っ辛かった。
「ほら、飲む?」
夫が手渡すキンキンに冷えた缶ビールを手にする。
プシュッ!という音と一緒に金色の雫がこぼれ落ちる。
濡れた指先から伝わる冷たさが気持ちいい。
ゆっくりと口を近づけ喉まで流し込む。
あの夏と同じビール。
すっかり大人になった今、金色の液体は、舌を擽る小さな泡と一緒に優しい苦味と共になって体内にゆっくりと染み渡っていく。
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