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宝石箱

「なんや、バアちゃんとそっくりな手になってきたわ」


ある頃から母は、よくこの言葉を口にした。あの時は気にもとめなくて、母の言葉に返事すらしなかったと思う。バアちゃんのシワシワの手も直ぐには思い出せなかったし、手が似ているからって、目元が似ているとか髪質が同じ癖毛だとかいうのと一緒で、大した意味はないと思っていた。ただの大きな声の独り言で、母も私に聞いて欲しくて言っているのではないと思って。


「ほら、見てみ」
「皺まで一緒になってきたわ、かなんわ」


そう言って、母は自分の手を広げて言うのだけれど、言葉とは反対に全然、「かなん」ことがない。大阪弁の「かなん」は、迷惑や困難、大変さを意味するのだけれど、それよりも、愛着を込めた受容と懐古の情が込められている。

何度か手を開いたり、閉じたりしてみる。


「歳とったもんや」


ため息まじりにつぶやく母は、私が小さかった頃の若々しい母ではなく、この頃にはお洒落をして出かけることもめっきり減ってしまったが、今までにいろんな物を背負って、いろんな物を失い、自分の手元にある小さな幸せを大切に生きてきた人間だけが持つ輝きを持っていた。

仕方ないないなぁという顔つきで口を少しへの字にしているのには、目尻だけが優しく下がっていた。


トントントントン
トントントントン

トントントントン
トントントントン


今日はニンジンサラダでも作ろうかと、ニンジンを千切りにしながらそんな事を考えていた。

見ると手がある。
薄切りにしたニンジンが逃げないように指先を下に丸めて支える母の手が目の前にある。

びっくりして手を止める。パッと開いた手には、指にも甲にも皺があり、緑色の血管が浮き出ている。艶のない使い古し感たっぷりの美しいとはお世辞にも言えない手。あの頃の母と同じ年頃になった。


「なんや、バアちゃんとそっくりな手になってきたわ」


私の指は長いほうで、爪も大きく手のひらが薄い。小指が薬指に寄り添って生えているので、家族に寄り添って生きていく手だよって言われたことがある。どちらかと言えば、父方の祖母の手に似ていて、今まで母の手と私の手が似ているなんて言われたこともなければ、思ったこともなかった。


「かなんわ」


わざと言ってみたけれど、全然「かなん」じゃない「かなん」。


何度か手を開いたり、閉じたりしてみる。


脳裏に浮かぶ母の手と同じ手だった。生まれた場所も、生きてきた環境も違う。全く別の人生を歩んできた。背負ったもの、失ったもの、手に入れたものの全てが異なる。

時勢からすれば、母が生きた時代の方が私が生きた時代よりもずっと恵まれていたに違いない。それでも、夫々が苦難を乗り越え、さまざまな葛藤を繰り返し、小さな幸せを少しずつ寄せ集めながら生きてきた。


「歳とったもんや」


歳をとるというのは、少しずつ自分の宝石箱に宝石を貯めていくのに似ている。重ねてきた歳は、いろんな色をした石になって宝石箱の中に納まっている。

全部の石が輝いているわけではないし、太陽に透かしてみないと色がわからない石もある。小さすぎて探さないと見つからない石なのに、どの石よりも輝いている石もある。あまり見たくないような醜い石だってある。大きいだけの石は邪魔で仕方がない。どの石も私にとって宝石。

手を見ながら思う。大きさや形は違っても、もしかすると母も同じ石を持っているのかもしれない。実は母がそっと私の宝石箱に忍ばせておいてくれたのかもしれない。

切り終えたニンジンをボールに移す。


(今日は久しぶりにニンジンのキンピラにしてみようかな)


母の宝石箱を一度除いてみたいと思った。
母と同じ石はニンジンみたいな色なのかもしれない。




追記: トップのイメージ画像をひかりのいしむろあゆみさんにお願いして、私が大好きな天然石の写真を遣わせていただきました。ドキドキするくらいイメージぴったりです。
あゆみさん、ありがとうございます!


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