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#自己紹介 〜私が建築士になった理由,やめる理由

初めまして、arisaです。
遊びに来て頂き、ありがとうございます。

私は現在(2019年6月)、まだ建築士として企業に所属していて。主に公共の現場管理・発注予算管理、課内マネイジメントなどに奔走している30代未婚中です。


もっと世界中のデザインや建物、ファッションショーとかに関わってみたい!!」と思い立ったが吉日。2018年10月からまるっと本格的に働き方・自分改革を開始♡笑


休日はファッションビジネス、デザインやPRなどを学校で学びながら、インターネットをメインにした働き方に移行するべく調べ物・とアウトプットの日々。毎日の作業タスクはもちろん増加中です。


仕事と並行して学ぶことがありすぎて、まーパンクしがちで…今まで違うブログを使用してたのですが、noteの力を借りてみよう!とお引越ししてみました。


アウトプットを増やしたい→変化を感じたい!+発信もしていきたい♫と思いながら、これを書き始めました(^^)


毎日休みなくバタバタしているからか、周囲から良く聞かれることがあります。


え?学校行ってるの??
ファッション業界に今さら転職するの!?安定した企業にいるのに?
30も過ぎて??結婚もしないでバカなの?
」って、かなりな確率で言われるんですよーっ!

まぁ、これには何と言っていいのか…
返答に悩む自分がとても情けないのですが。
「表現したい」ことには変わりないけど、「じゃあ服がつくりたいのか?」と言われると…なんか少し違うんだよなーというか。


キレイに言えば建物以外で、“もっと身近にある物の価値やデザインの見方や意味を学んで発信してみたかった“って感じが近いよーな?


そもそも、こんなことを真剣に考えるキッカケになったのは。背が低いにも関わらず大人数の中を歩くプチ・ランウェイの機会を貰ったことです。
そこで世界観の作り方や、服の魅せ方、歩き方、身体の鍛え方(!?)などを超ーー短期間で教えてもらい、無理やりステージに立ちました笑


そうか!!モデルさんとか各ブランドって、ただ服を見せて買わせる為に歩いてる訳じゃないんだ!」と、すごく当たり前の事に気付いて。


洋服は昔から好きだったけれど。
今までスカートのなびかせ方や、パンツのライン、シャツの着こなし方。第三者に、「魅せたい世界観を、洋服を通して伝えられているか?」なんて細かく意識した事、全くなかったなーって。


同時に、その為だけの光や音の反射、どこの空間をどう使って、何を表現するのか。曲選びや人の動きの動線や構成なんかも含めて、深く意識して見た事がなかった、と気付いて。


モノを見る目がスルッと変わり、何だか自分の世界がすごーく、スッと広がったのでした(^^)


で、タイミングと行動力だけが合致して、社会人でもファッションをまとめて学べる学校を探し出して(笑。
今の生活スタイルがあります。


年齢やバックボーン、目指す場所が全く違う人たちと一緒に肩を並べて学ぶ場は、とても貴重で日々新しい発見だらけ。
同時に、自分の浅はかさや能力の無さに、凹むことももちろん多々あります。


でも、そんな生活も半年以上が過ぎ。
ビジネスの主幹は一緒でも。
大きい建築と、手に届きやすい洋服の考え方、売り方の違い。なんとなーく、服の作り方や広め方、ブランドイメージの大切さ・マーケティングの大切さなんかを分かってきたところで…


ふと、「そもそも私、何で建築士になったっけ?」って思っちゃいまして(・・?)


何で15年近くもこの業界にいて。
「いい加減もう辞めよう」と、何故思ったのだろう?タイミングって何だったっけ?と。


ちょっと一回自分整理をしてみよーかなと思い、自己紹介エピソード1?として書き出してみました。


ココから先は、ちょっぴり深い?自己紹介。
長ーいので…お時間がある時にでも、覗いて頂けたら嬉しいです。

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▼私が建築士になった理由ー


そもそも産まれた家系が建築系の家でした!
それが、1番影響力があったと思ってきたけれど。
4人兄弟の長女で生まれ、建築に行ったのは私1人だったから。よくよく考えてみたら、大して関係ないのかもしれない。

父方の祖父は大工で、父親は不動産関係。母方の祖父母は地位ある教育者でした。今だから理解できる、いわゆる業界違い家系の格差結ーっ。で、私が中学生の時に両親は見事に離婚し、兄弟全員母親に引き取られました。


私は幼少期からお人形遊びやママゴトよりも、折り紙や絵を描く事が好きで。私のおもちゃ箱の中はいつもクレヨンや色鉛筆、塗り絵や画用紙で溢れていましたね。あとラジコンww


毎日の恒例行事は、木材を加工する工場に立つ祖父の後ろ姿を眺めること。香り立つ、檜の木にカンナをかけると響くシャッ、シャッという音。ふわっと庭に広がる檜の匂いが、好きでした。


中学に上がる頃には、工作と美術・数学が面白くて好きになり。2次元が3次元になる楽しさと、両親の離婚から、「とりあえず手に職は早めに必要だよねー」と考えるようになっていて。

「働くなら、何にしようかな」
常、に考える日々。


チビなのにバスケ部で3年間汗を流しながら、『やっぱり建築をやろう!』と突然閃いたのは、モノづくりをしたかったから。進学先はなんだかんだ高専か工業かで悩みましたが、制服が1番可愛いかった工業高校の建築科へ入学。そして、そのまま大手ゼネコンに就職しました。


でも本音を言うと。


このタイミングで就職なんてしたくなかった。
本当は…アメリカに行って、空間デザインを学びたいと思っていたから。笑顔がすごく可愛い、あの子のように。


一縷の望みを胸に、高1の頃から英語の授業と美術だけは頑張って、成績もどうにか上位をキープし続けてきたけれど。
食べ盛りの弟たちがいて、それぞれが進学を控えていて。


『アメリカへいく』『留学したい』を叶える、そんなお金は家には微塵もあるはずがない事は、薄々分かっていました。でも、心の何処かで「叶える道がどこかにあるんじゃないか」って、淡い期待を胸に抱きながら。日々、バイトと部活に明け暮れながら、3年間を過ごしていたのです。

▪️私は「働く」しか道がない


完全に諦めたのは高3の春。担任と親との3者面談で、「いい加減、現実を見ろ!っ」って諭されまして笑。
渋々就職組へ移動。さすがは有名?な工業高校で、就職活動は特に必要ないまま、しれっと就職先が突然決まるという荒技が発生。というか、16人いた女子生徒の中で、建築の道に進んだのはわずか5人しかいなかった!。

なんと!残りの11人の子達は皆、建築とは全く関係ない美容系やファッション、進学の道を選んでたのですよーっ。驚きww
何のために3年間建築にいたの!?って感じですがw
それぞれが365日×3年という地獄の課題の日々を過ごし、それぞれの好きな事に気付けたタイミングだったのかも?


そんな経緯で、ゼネコンで働き出した頃の最初のわたしの担当は、仮設足場のCADオペレーター
1日中、足場の図面書きと壁つなぎの計算してました。
あとは道路使用とかの申請書類とかをひたすら作って、申請に行ってましたね。役所と警察を往復する日々。


テレビゲームが好きだった私には、CADの操作を覚える事は割と簡単なことだったけど。細かーいところがどうしても気になってしまうのは悪い癖で。足場の1つ目を左始まりか、右始まりかで上司と口論になったこともww

パズルが好きだったから。
でこぼこで複雑な組み方をしなければいけない場合でも、ブラケットというはね出しの荷物置き場を作るときも。いかに材料を抑えて、強度を持たせるか?使い勝手が良い位置はどこか??を考える事が楽しかったな。


数学好き、というか数字好きだったので。ソフトでしたが、風力計算も楽しくて。その建物がどこに建つか?で、面積にかかる風力計数が変わるのだけど。そうは言っても、普通にやったら壁つなぎが入らなくて足場の強度がNGと出ることも。

防炎シートじゃ風受け過ぎてムリだなー。でもココなら入りそうだからピッチを変則にして、数増やして良いか確認しよう。とか。
階段の位置と仮囲いの扉。どう組み合わせたら皆んなが動きやすいのだろう?とか。試行錯誤の日々。


ウンウン悩んで出した、仮設図を。
現場監督たちに褒められることは、とても励みになったし、嬉しかった。


でもー
"自分の手で、街を造る仕事がしたい"


設計よりも、2次元を3次元に変える施工に惹かれて、元請会社に縁あったのだから。

現場に出たい。

当時、女性の現場監督なんて大手企業を入れても数えられる程しかいなかったし。自分の会社には当然1人もいなかったので。上司たちはわたしの発言にそこそこ驚いてましたね。


それでも現場に出たいと声を上げ続けて、そのチャンスが来たのは4年後の22の時。


たまーに、上司のお使いで訪れていた現場の雰囲気とは打って変わって。現場に立つ身として現れたわたしに、各工種を担当する親方たちは常に態度も言葉も厳しかったし、自分が全く歓迎されてないことも、なんとなく肌で感じていました。


きっと現場にいた職人さんたちも皆んな「こんなやつ使い物になるわけがない」と内心思っていただろうし。実際、声に出して言われた事もありますよ。

「女なんか使えねーっ」て、本気トーンで。

それでも毎日現場に立ち続けて、建築士や施工管理技士など資格を取得しながら、経験をを重ねていくことが出来たのは。


何だかんだ厳しくも優しい、親方達や所長が面倒を見てくれたから。必ずヒントとチャンスを与えてくれる人がそばにいたから。


そのうちに現場の中で"次"の動きや、必要となるであろうものの先回りが出来るようになり。
自分の意見や考えを聞いてもらえるようになって。


一緒に建物を造ってるって感覚が。
少ーしだけ芽生えてきたから。
もっと出来るようになりたい、もっと頑張ってみようって思えました。

「分からない事や、やる理由は自分で調べて、現場で確認しろ。現場は常に生きているんだ。
お前の動きが1分でも遅ければ、全てそこから崩れるんだからな!!」


「整理・整頓は基本。簡単に仮置きさせて、現場を汚すな!動線と次の作業工程を考えろ!」

「お前はバカか!?何で材料の発注が間に合わないんだ!
全体工程に絡んでくるだろうが!交渉してこいっ」

今は亡き、所長のありがたい叱咤激励教育のおかげで。まだまだ足りない事もあるけれど。今も、かゆいところにどうしたら届くのか?をベースに物事を考えて仕事を進めていけているのだと思います。


この頃、主に担当する現場は学校の改修やマンションの新築だったけれど。たまーに幼稚園の改修とかもあって。
「女性がいるなら安心ね」と園長先生に笑顔でかけられた言葉が、ただただ嬉しかった時期。

だけど贅沢にも、棟数をこなしていくほどに世界が狭く感じるようになっていき。どんどん息苦しくなってて。
いつしか、違う世界を探すようになっていました。


▼一度建築を辞めたワケ

そんな時に出会ったのが、ヒップホップダンス。たまたま知りあった人がダンサー兼会社員の男性で。連れて行かれた大きいイベントを間近で見たことがキッカケ。

ダンスを遊びじゃなくちゃんと始めたのは、2級建築士に受かった24の時。今では学校の必修科目となっているようですが、あの頃はスクールでさえ習ってる人なんて、ほぼいなかったです。あ。田舎だったからかもですがw


飲み会で知り合った友人に連れられて。
重ーい文化会館の扉を開いた先で、目の当たりにしたのは割れんばかりの溢れる歓声と、熱気と。空席が見当たらない程の人の多さ。

ダンスの発表会兼大会が、1,000人規模が余裕で入る会場で行われてる。


ステージ上で行われた、たった3分半に詰め込まれたパフォーマンスの数々。小学生から大人まで様々な年齢の人たちが向こう側で魅せる、しなやかなで機敏な動き。真剣な眼差しと圧倒される気迫。


何て言うか…一目惚れ?

「私もあっち側の人間になりたい」って強く思って。連れて行ってくれた友人に頼み込み。3日後ぐらいにダンススクールを紹介してもらって。仕事の合間に週3で通いだしました。

この頃は、現場も近場で平日20時までには調整すれば帰れていたので迷いはなく。日曜は朝から2講義とることで早く慣れようと考えてました。

始めた当初はカラダも硬く(自分は柔らかい方だと思ってたら、とんだ勘違いだった)準備運動のリズム取りとストレッチ・筋トレだけで息が上がってしまう程。90分レッスンで15分しか踊ってないのに、レッスン後には立ってられなくて。車の中でウトウトしてから帰ることも。3ヶ月も経たないうちに週5に増やすと、必然的に体力は勝手についていきました。


そして、ココで働きながら夢を追いかける人たちが大勢いる!ということを知ることになります。


昼間の職種は保育士、大工、商社マン、小学校の先生、銀行マン、看護婦だったり、普通のOLさんとか。バラバラもいいとこだったけれど。


とても勉強になったのは、彼らは限られた時間の中で、『どう自分自身のパフォーマンスに繋げるか?』にとても長けている集団だったんです。皆んなとても練習熱心だったし、些細な動きと曲使いにとてもこだわっていました。もちろん仕事も頑張ってた。


そして。その時一緒の時間を過ごしていた人の中からは東京へ進出し。
その後アーティストのミュージックビデオに出演したり、舞台に出たり、海外チームに所属する人が出るほど。

今、考えれば。
片田舎の町で、凄い才能の持ち主たちと時間を共有していたのだなと、何だか胸が熱くなるコトもあります。



2年間いくつかのショーやイベントを経験しつつ、週6で踊るようになった私の興味は、完全にダンスと海外に移り変わっていました。


27を目前に、ついに上司に退職届を提出。
ナンヤカンヤと言われながらも、退職した翌日。
私はそのままロスへ飛びました。


dance漬けの日々が欲しくて。
もう、逃げたくなくて。
アメリカの地を1度でも良い、踏んでみたい。
そうしたら。新しい自分に会えるんじゃないかー

淡い期待とわずかなお金を握りしめ、たった2ヶ月間だけの渡米。高校生の時に抱いていた、淡い淡い夢の一部を叶えた瞬間でした。


帰ってきて、「なぜ今、まだ建築をしているの?」と疑問に思ったかもですが…それはまた別の機会にお話ししまーす(^^)

ただ、これを読んでくれているあなたもそうかもしれませんが。いつだって私の人生の岐路には、必ずキーとなる人との出会いと、強く興味を惹かれるものがありました。


私、いったい何がしたいんだっけ?」という、自分への問いかけと共に。


人生一度きり。
このまま、また何も新しい事にチャレンジもせず、安定と言われるこの場に居座って。

私、ホントにこのままでいいの?


「…良いわけないっっしょ!」
それが、30も過ぎた自分が再び出した答えでした。



だから、まず手っ取り早く「今」を変える為に。
自分を少しでも外見から変えたくて。
音のある世界に戻りたくて。


モデルさん達が通う、ウォーキングスクールの門を叩き、貰ったチャンスに素人丸出しで。プチランウェイを歩くコトにチャレンジしました。


ファッションが出来るまでを学んでみようと、学校へも行きました。『忙しいから、海外に行けない』のは只の言い訳だと思って。夜勤と有給を組み合わせて、弾丸で韓国や台湾へもいきました。

働き方を考え始め、様々な出会いがあり♡
パラレルキャリアを目指すようになりました。


世界をもっと身近に見てみたい。
日本の良さも感じたい。
今、必要とされる"モノづくり"とは?


いろんな想いが交差しては消えー
進めば進むほどに、不安と期待が入り混じる。
世界には建築→ファッション関係に転向して、大成功を収めている人は大勢いるけれど。自分がどんな風にこれから何を積み重ねていくのかは、全っ然わからないww


それでも
自分の人生は自分の手で、デザイン出来る



「建築だけ」イガイの世界に挑戦すると決めたから。
表現し、デザイン出来る「ナニカ」を目指して。
モノづくりの価値と感動に出逢い続けるために。



私はまた「建築」を辞めます。





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