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誰かの何かになりたかった話

私は幼い頃から、誰かの何かになりたいと思っていた。もっと言えば誰かから必要とされる人になりたいと思っていた。自分を貫くことで誰かを手放さなければいけないのならば、自分を曲げることをためらわないような子だった。

前にnoteでも書いたが、転勤族だったこともあり周りの人に合わせることや人の気持ちを察する事に関しては敏感だった。それは、他人の中に私というポジションを確立させたかったからである。

自分という存在を、他人の中に見出すことに意味があると思っていたのだ。

でも今なら、それは違うとはっきりと言える。

自分を自分で認めてあげる、自分に寛容になってあげる、ありのままの自分の居場所を作って受け止める。これにこそ意味があるのだと私は思う。

自分の描く理想の自分と、日々を過ごす中で感じる本当の自分との矛盾にどうしても葛藤する日があるだろう。

なぜこんな自分なんだと失望する日があるだろう。

理想を追い求め、自分を見失い涙する日があるだろう。

そんな日があってもいい。むしろあった方がいい。

私はまだ18年という短い時間しか生きていない。でも、自分の存在というものに悩み一人で泣いた夜を何度も経験した。苦しかった。明日突然自分を変える自信もなければ、このままの自分を貫ける自信もない。一体自分はどんな人間だったんだろう、と。

でも他人の中に居場所求めようとしなくなってからその夜は格段に減った。

誰かの中にあなたがいなくても、あなたはきちんと存在している。他の人からどう思われても、自己中心で生きる。自分はどうしたいのか。

自分が好きな自分を、いかに愛してあげられるか。

理想の自分にこだわらなくていい、今の自分を置いてけぼりにしないで。

あなたの中に、ただ一人のあなたを。

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