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『正チャンの冒険』とは (前編)

執筆:新美琢真

『正チャンの冒険』は、今から100年前の大正12(1923)年1月25日に『日刊アサヒグラフ』で始まった日刊連載の新聞4コマ漫画です。作者は原作の小星(織田信恒)と、作画の東風人(樺島勝一)。正チャンという名前の男の子がリスと共に、不思議な出来事に遭遇したり、ファンタジックな世界を冒険する作品です。大正末期に一大ブームを巻き起こしました。

【図1】正チャンとリス(「お伽正チャンの冒険 壹の巻」より)

年配の方が頭頂部にボンボンの付いた毛糸の帽子を「正チャン帽」と呼ぶことがありますが、これは正チャンがこの帽子をトレードマークとして被っていたことに由来しており、この作品が当時どれほどの大ブームを起こしたのか、うかがい知ることが出来るでしょう。
また、正チャンは新聞の4コマ漫画の元祖となる作品でもあるのです。現在、新聞に毎日4コマ漫画が載っていることは普通になっていますが、実は100年前に正チャンから始まったことなのです。
漫画の歴史的にも重要なこの『正チャンの冒険』は、どんな作品で、どうやって生まれたのか、その歴史をご紹介します。

二人の作者と『日刊アサヒグラフ』

さて、「正チャンの冒険」はどのようにして始まったのでしょうか、話は原作者である小星こと織田信恒が大正11(1922)年夏に、子供向け新聞を発刊しようと思い立ったことから始まります。
明治22(1889)年に旧相馬中村藩藩主の相馬子爵家に生まれ、織田子爵家の養子なった織田信恒(おだのぶつね)は、華族であり、京都帝国大学卒業後に日本銀行に入行したエリートでした。

【図2】織田信恒(1926年ごろ)

視察のために海外の様々な都市を訪れていた織田は、そこで目にした子供向けの新聞に将来性を感じ、日本でも発刊出来ないかと考えたのです。織田は帰国後直ぐに児童文学の大家であった巌谷小波(いわやさざなみ)に相談を仰ぎ、発刊の計画を着々と進めました。そして、新聞として発刊するなら将来的に大手新聞との資材や販路の連携が必要になるだろうと考え、朝日新聞にも援助を求めに行きます。
朝日新聞社では丁度その頃、杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)らが中心となって、英国の『デイリー・ミラー』のようなタブロイド判の写真新聞『日刊アサヒグラフ』を創刊する計画が進んでいました。
大阪朝日新聞の社長と面会した織田は、『日刊アサヒグラフ』の計画を教えられ、逆に編集部に誘われてしまいます。
日本初となる日刊写真新聞として、様々な先進的な企画が取り入れようとしていたこの新聞では、常設の子供ページの創設も検討されていました。子供向け新聞の企画を持ってやってきた織田は、まさに適任といえる人材だったのです。
突然の申し出に織田は戸惑いましたが、最終的に嘱託として『日刊アサヒグラフ』に参加し子供ページの編集に携わることになります。
入社の経緯について織田はあまり詳しく語っていませんが、新聞の編集や経営は素人であっため、巌谷から「一度実地で経験してはどうか」といったアドバイスがあったのかもしれません。

もう一人の作者、作画を担当する東風人こと樺島勝一(かばしまかついち)は、明治21(1888)年に長崎に生まれました。大正2(1911)年に上京後、絵心を買われて雑誌の口絵などを描き始めます。後年、少年雑誌などで緻密なペン画で人気を博し「船の樺島」と称されるようになりますが、この頃はまだマイナーな雑誌に執筆する無名の挿絵画家でした。そうした雑誌に掲載されていた挿絵が『日刊アサヒグラフ』の技術部長(写真部門の編集長)成澤玲川(なるさわれいせん)の目に留まり、創刊メンバーとしてスカウトされることになります。樺島は『日刊アサヒグラフ』のビジュアル面に大きく貢献しており、挿絵や諷刺画などの絵の仕事だけでなく、アサヒグラフというタイトルのレタリングなども手掛けています。

【図3】樺島勝一(1931年ごろ)
【図4】樺島勝一が手掛けた「日刊アサヒグラフ」のタイトル


日本初の日刊連載4コマ漫画

『日刊アサヒグラフ』の準備を進めるなかで編集長の鈴木文四朗(すずきぶんしろう)は、子供ページの目玉として日刊連載の4コマ漫画を考えつきます。欧米の新聞では1910年代には日刊連載の漫画が定着しており、これを真似たものでした。鈴木は英国のデイリーミラーに連載していた漫画『Pip, Squeak and Wilfred』を参考にしたと語っています。

【図5】米国の日刊連載新聞漫画:Bud Fisher「Mutt and Jeff」(The San Francisco Examiner、1910)
【図6】「ピップとスクィークとウィルフレッド」(織田信恒が『小学生全集23巻 児童漫画集』(1927)で紹介した翻訳版)

今では大抵の新聞に、毎日4コマ漫画が掲載されていますが、当時の新聞に掲載される漫画は、週一回の漫画欄や読者投稿のものを除けば、散発的に諷刺画や議会スケッチなどが掲載されることが主で、連載だとしても1週間程度の集中掲載でした。日刊連載の漫画というのは、類例のないものだったのです。
また、漫画家も諷刺画や1コマ漫画描く作家が主流だったので、4コマ漫画をそれも毎日描けるような作家はいませんでした。朝日新聞にも岡本一平(おかもといっぺい)や山田みのるといった有名な漫画家が所属しましたが、彼等ではなく織田と樺島が、正チャンを描くことになったのは、漫画家でも新聞社の人間でも無かったため、日刊連載がどれだけ大変なのか解っていなかったからなのかもしれません。

このような前例のない日刊連載4コマ漫画が採用された背景には、『日刊アサヒグラフ』創刊の主要メンバーに、杉村楚人冠(局長)、鈴木文四朗(編集長)、成澤玲川(技術部長)といった、海外での赴任経験がある人物たちが、就いていたことが大きかったでしょう。彼等は海外の漫画にも詳しく、その高い人気を良く知っていたのです。また、新創刊する新聞だったため、朝日新聞本紙のような気兼ねや、しがらみが薄く、新機軸の企画が取り入れやり易かったことも連載を後押ししました。
そしていよいよ、『日刊アサヒグラフ』が創刊されます。

―――つづく(次回2月16日更新予定)

新美琢真

マンガ研究者、川崎市市民ミュージアム学芸員。フリーランスのイラストレーター・デザイナーの傍ら在野のマンガ研究者として展覧会企画・イベントなどを手掛ける。2018年より現職。主な展覧会企画に「国産アニメーション誕生100周年記念展示 にっぽんアニメーションことはじめ~動く漫画のパイオニアたち~」(2017年)、「のらくろであります!田河水泡と子供マンガの遊園地<ワンダーランド>」(2019年)などがある。