真・AXS三部作 そして我が今世紀最大の発見 〜アリーナ&ビデコン〜


前回、一期と今のaccess、そしてヲタクの俺(余分)に関する概論を書きました。
各論その1は、access LIVE ARCHIVES BOX Vol.2  DISC 2を。
ARENA STYLEとそのすぐ後に開催されたビデオコンサートが収録されています。

さて、このブルーレイを与えられたことで、実は一期のaccessについてごく一部のことしか受け取れてなかったんじゃねーか?理解したり知ってると思ってたことも、そうでもなかったんじゃ?と気づき、再確認再検討していく人生レベルの楽しみを得てしまったわけですが、そうなると第一に取りかかるべきは、もちろん三部作。なんで?そこに三部作があるから

改めて、accessが主軸に据えたのが「純粋な感情」であるからして、こちらもできる限り純粋に、かついい年こいた大人なりのものの見方で、そのご耽美なる物語を追体験してみたい。
おおかたaccessが美しすぎ先を見据えすぎていたがあまり、義務教育中のねんねじゃ彼らが伝えようとしたことの1/3も伝わらないんである 三部作だけにね

では、ヒアウィーレッツゴー!


三部作 〜PV ver.〜

俺は個人的に三部作PVの中で、とりわけDRASTIC MERMAIDの大介が一番好きだ。美しいシーンは三部作PVの中にいろいろあるんだけどとにかくドラマメが、好きで好きで超大好きなんである

ご存知のとおり、ドラマメのPVというのは、メインストーリーのドラマ部分とライブ部分からなる。ライブというのはもちろん、accessの衣裳を着てaccessがライブをやってる、つまりaccessがaccessとして出演している。

以下、個人的解釈。
基本的に三部作PVはヒロが主人公だ。(便宜的にあのPVでヒロが演じているヒロっぽい人のことをヒロと呼ぶ)ドラマメでライブをしているあのピンク衣裳の大介は、ヒロにとっての"現実"、それもヒロをなにか自由とは呼べない見えないものに縛り付けるような方面の、いささかのしかかるような悩ましい現実を象徴している。輝くaccessをやりながらも何なのかわからないモヤモヤに気づき始めたヒロ。壁やら水槽の中から幻覚のようにヒロを戸惑わせ始め、エレベーターから現れた可憐な男の子ムネちゃんの登場とともに事態はますます混乱へと突き進んでいく。

ムネちゃんが何者なのかわからないまま、惹かれているようなようわからんような自分にも悩み、ヒロの毎日は急激に妄想と現実の境目をなくしていく。

そしてデートしてみたりした結果、ついにムネちゃんの幻影は現実の大介と一体化し、ヒロの目の前には大介だけが残る。ハッ。正気に戻ったのだ。

ヒロを抱き寄せ、確かめるように抱擁すると、大介は純粋な感情の妖精みたいなムネちゃんをその身に引き受けたまま扉から消えていく。君はもう大丈夫。ヒロはもう、自分で見つけたヒロ自身の純粋な感情とともに歩めるのだから。

〜完〜

あそこに出てくるaccessはaccessなんだけど100%マジのaccessだとは思わずに見ているわけで、ドラマ部分の大介はなぜか物知りげに階段から見下ろしていたりするじゃないですか。なんならSCANDALOUS BLUEを演奏している布の前のaccessでさえ、本当のaccessなのかヒロの脳内なのかどうか、もうはっきりしないわけです。
現実と夢想の間を行ったり来たりする危なげでご耽美な幻惑的世界の中に、唯一ゆるぎなく淡々と存在する"現実"、それがドラマメのピンク介なのです

かくしてその存在意義そのものが胸を締め付けるように果てしなく切なく、ヒロがこれからなにか大きなものと出逢い、戦い、だんだん現実から遠ざかっていきもがき苦しむのをわかりながらも手を出せない、素足の君は眩し過ぎて…そんな心情をその存在そのもので表現する、それが!ドラマメのピンク介なのです

大スターaccessであるがためにヒロは純粋な感情を獲得する過程でより一層世間の目に悩むことになってしまう、だけどヒロが純粋な感情の存在に気づいたのはaccessである日々を経てこそだよね、あれ?もうあのピンク介はそれもわかっていながらaccessの相方としてそこにいる?もしかして神?そんな半端ない葛藤やジレンマをはらんだ痺れるような孤高の存在、それがもうおわかりですね

ドラマメのピンク介なのです

三部作 〜ARENA STYLE ver.〜

そして、アリーナスタイルの三部作だ。これは現実のライブの中にイメージリンクの世界を取り込んでこしらえたいわば劇中劇のようなもので、あの三部作コーナーだけはaccessのライブでありながらaccessそのものではないと見ることもできる。

イメージリンクでは、涼介が右手にとある理由で怪我を負い、心配させまいとそれを隠し、手袋をしたまま演奏する。小説でも漫画でも大筋は同じで、そのひどい怪我に気づいたタカが涼介への思いついほとばしり、ステージ上でキスをしてしまうーーという流れ。

アリーナスタイルの現実の映像では手袋をしてたり包帯を巻いたりしているが、あそこにいるのはそうですね。涼ちゃんです

涼介は、淡々とした、少し他人を遠ざけてしまう壁のあるキャラとして描かれていて、感情の起伏を表に出さないというのは一期の大介のイメージリンク的キャラ設定として大正解じゃなかろうか。実際アリーナの三部作コーナーでも、ソロのシーメデを含め、大介の演奏は冷静さを失うことなく、規律のあるいかにも当時の大介らしい抑制の効いたものだ。とにかく三部作コーナーの大介は際立って儚げでシュッとしてる

唯一スキャブルのラストで、ヒロが一度離れてからの大介の動きはとてもうまいと思うな。苦悩と、クールな建前と、隠された熱がよく表現されていて、素の大介らしく音に身を任せる雰囲気もあり。あれがナチュラルに出てきたとしたら大介めっちゃ涼介の才能ある。

あくまでも、三部作の曲の世界を主軸に、イメージリンクの主人公たちをふわっと憑依させた、あそこで完結するストーリー、それがアリーナスタイルの三部作だ。

そして25年後... 〜ビデオコンサートver.〜

そこにビデオコンサートときたわけだ。
もちろん当時見た方にとっては新作でも新発見でもなんでもないが、俺は2020年令和2年、いい年こいた大人になって初めて見ちゃったのである。

完成された三部作PVの世界にアリーナスタイルがかぶさってくると、次元がゆがむというか、見てる側のaccessに対する思いみたいのも入り込んできて、コトはめちゃ複雑になる。PVの中に現実があり、現実の中に虚構がある。accessと、accessでありながらaccessではない存在がないまぜになる。実は非常に難解な構成なのではあるまいか。

PVのふたりの美しさにおののき、アリーナスタイルのふたりの熱量に打ち震え、激しく交錯する現実と虚構に脳を揺さぶられながら何度かビデコンver.を鑑賞した結果、俺は「三部作を悲しくするものとはなにか」に思い至った。特にティアーズ。

そらどうしたってオーバーティアーズは具体的な悲しいシーンに直結しているし、ポップジャムを100回見てそろそろ慣れようぜとか言うつもりもないけど、シンプルにこのアリーナスタイルのティアーズ、隠しきれない力強い希望っぷりはどうだ。三部作のPVの、光り方ったらどうだ。

accessって、ティアーズを悲しく演奏してなかったんだって気づいてしまったのだ。スピリチュアルじみるけど、こちらが悲しいと思って見ていたから悲しかっただけなんだと、まぁつきものが落ちるように会得したわけです。

ここ数年、特にSツアーで三部作をやって以来、ティアーズ始め三部作に対する我らの思いもだいぶ変貌を遂げたように思う。過去のあまりにも偉大なる遺産であったものを、現在進行系の姿に転生させてくれたようで。曲そのものが持つ未来への渇望、くもりのない前向きなメッセージ、そういう元来の眩しい魅力を掛け値なしに受け取れるようになってきたように感じている。

そういう気持ちの変化を経てからの、2020年に大統括的に見たのが、ビデオコンサートver.の三部作なわけです。
たぶんaccessは当時、なにかを感じながら演奏していただろう、我々がまだ知らなかったものを。だけどそれを探ることに気を取られすぎて、いつまでもこの美しい世界を哀しみで終わらせっぱなしなのは、今を生きる令和の人間としてはただただもったいない。

三部作を悲しい別れのストーリーとして受け取るのは個人の自由で、イメージリンクなんかまさにそういう部分もはっきりとあるから、全然間違いとかじゃないんだけど。ただ、個人的には、前に進んで行く部分ってのをフューチャーして増幅して、心置きなく楽しめる今の時代がきたんだ、幸せだなって思ってみたい派。

もう心置きなく好きに愛していいんだよ、三部作のこと。
今もaccessはいるんだから。

最後に、ブルーレイでアリーナスタイル見て今世紀最大の発見。

大介まじで歌ってたんやな?

Yours Affectionately,
おたぼ


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