見出し画像

私的音楽一週間記

映画館で本編前の予告を観ていたら、無性に日記を書きたくなった。一週間の記憶は曖昧なもので、そもそも記憶なんて都合よく編集されていくものだから、もしかしたらここに書いたことすべてがその時の本当の出来事かも感情かもわからない。でも、音楽を聴いていたときの記憶は思っている以上に正直なんじゃないかと思う。

■5.25(土)
留学時代の友人とランチ。向かう電車の中で聴くのはくるり。
前夜に行ったZepp Tokyoでの「列島 Zeppェリン」の余韻に浸りたくて。
“いつも”の中のたくさんの瞬間にくるりの曲が重なっていて、色々な感情に染み込んでいる。あれ、くるりを聴き始めたのって、いつだったろう。何がきっかけだったんだっけ。
そんなことをぼんやり考えていたら、電車を乗り過ごしてしまう。
歌舞伎座近くの老舗店でシチューを頬張り、カフェで一息ついたときに友人がぽつり言う。“感動する心の振れ幅が年々狭くなってる気がする”と。
留学時代、何にでもなれると思っていた根拠のない自信と煌めく意識の高さはどこへいってしまったのか。妥協を覚えてしまったことへのやるせなさと安堵感の両方を抱え、電車に乗って再びくるり。
「カレーライスの唄」を聴いたら、神保町へ足が向いていた。

■5.26(日)
芸協落語まつりへ。西新宿のビル街を抜けながら聴くnever young beachの「思うまま」。晴れた昼下がり、騒がしい街の中で聴くネバヤン。忙しない流れの中で歩調が乱れても、ネバヤンを聴くと元に戻る。というより、自然と一番心地良いペースになっていく。不思議なほどに。
落語まつりの賑やかな閉会式を楽しんだ後は、約束していた蕎麦屋へ。電車の中、スマホ画面をスクロールして選んだのは風味堂の「もどかしさが奏でるブルース」。会ったら何を話そうか、そう考えている時間が一番胸躍っているのかもしれない。板わさとだし巻き玉子をつまみに日本酒を楽しみながら、時間の波に漂い始める。“嗚呼、なんて良い夜。”心からそう思っていた、蕎麦を手繰りながら脳内で「時そば」が流れ始めるまでは。
小さな頃から集中力が乏しかった。授業中は先生が発する言葉や教科書の中の単語からめくるめく想像の世界が広がっていたし、今でも飲食店では周りの声と音が入ってきて会話に集中できない。何かに気を取られると、そのことしか考えられなくなってしまう。相手の会話にはちゃんと興味があるのに、私の頭の中ではすでに、“親爺ぃ、今なんどきでい?”と勘定の場面が繰り広げられている。
謝って早めに切り上げ浅草へ向かう。“3年後の私はどうなっているんだろう”、ぼんやり考えながら挿したイヤホンから流れてきたのは「笑ってサヨナラ」。
浅草演芸ホールで市馬師匠の「猫の災難」を聴いて、私は日曜日にサヨナラ。

■5.28(火)
朝から原因不明の胸やけと背中痛。体調を崩すとなぜだか過去を振り返り始める。しかも、“昨日なにか胸やけするようなもの食べたかしら?”みたいな反省的なものではなく、“あのとき別の選択をしていたら…”という壮大なセンチメンタリズムの類。体調不良からくる不安は、あらゆるかたちで、想像し得るすべての<if>へのアクセスを許してしまう。そしてそういうときは大抵、「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴いてしまう。センチメンタルの極みに自ら突入。

■5.29(水)
仕事後、楽しみにしていた翻訳講座へ。
つらい胸痛の原因は食道炎との診断を受け少し落ち込むも、翻訳に夢中になり束の間痛みを忘れる。「良い翻訳をたくさん読んでください」と言われ、そういえばあまり読んでこなかった柴田元幸の翻訳作品を購入。ちょうど別の翻訳家による『九つの物語』を読み返していたから、読み比べるために『ナイン・ストーリーズ』を。レジで支払いを済ませようとしたら、隣のレジにいた白髪の紳士と目が合う。やさしい微笑みに思わず胸が高鳴る。昨日から(色々な意味で)胸への衝撃がつづいている。雨上がりと胸が高鳴った日は、いつも以上に細野晴臣を聴きたくなる。帰り道、繰り返し聴いたのは「悲しみのラッキースター」。

■6.1(土)
薬が効いてきたのか痛みが少し和らぐ。
翻訳の課題に集中するため、日比谷図書文化館へ。勉強するために行ったけれど、結局本を読み始めてしまう。これはもう、抗う必要なし。窓際の席で三浦しをんの『星間商事株式会社社史編纂室』をゆったり読む。日比谷音楽祭を開催している日比谷公園から懐かしい洋楽が聴こえてくる。大学時代バイトしていたライブハウスでよく演奏されていた曲だ。
閉館時間を迎えた図書館、斉藤和義を聴きながら駅に向かって歩く。途中の有楽町高架下で、海外からの観光客らしき男性が一眼レフを構えている。絶え間ない人の流れと喧騒の中で、ひとりちがう世界にいるようにカメラを構えている人を見ると、淡い愛しさのような感情がこみ上げてくる。レンズの先に何を見ているんだろう。どんな瞬間を切り取ろうとしているんだろう。レンズの先の<一瞬>を私にも見せてほしいとさえ願ってしまう。同じ方向を見ても、その人と私ではきっと見えるものも見ているものもちがう。何かがあるかもしれないし、何もないかもしれない。ただ、誰かが記録したいと感じた瞬間がそこにあるというだけでほっとする。男性の横をそっと通り過ぎる。思わずイヤホンを外して、少し先で振り返る。紳士はカメラを構えたまま。挿しなおしたイヤホンから、「天国の月」が流れてきた。

いつもと同じ道を歩いても、聴く音楽を変えると目に映る景色も変わる。何度も散歩したあの通りに、アヒルがいたことを初めて知った。