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ⅴスティーブ・ジョブズの誕生からアップル復活まで⑩

マンガ「ジョブズの魅力?」

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企業コンピュータ市場の巨人IBMの個人市場参入

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西海岸カリフォルニアを中心に、フレデリック・ターマン率いるスタンフォード大学の産学連携などを契機に1960年代にいよいよ半導体の集積によって花開いたアメリカ情報技術(IT)産業。


しかし、この利益を最も得たのは東海岸(ニューヨークなど)に拠点を構えるIBM(International Business Machines Corporation)でした。

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IBMは1911年、前身のタイムレコーダー(勤怠管理のシステム)やパンチカードの研究・開発・製造する企業として設立しました。

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積極的なR&D*予算の再投資によって黎明期のコンピュータ産業において1960年代まで企業向けコンピュータ市場では実質的な市場独占を果たし、圧倒的な存在感**を発揮していました。

*Research and Development(開発研究)。自社の事業領域に関する研究や新技術の開発、自社の競争力を高めるために必要な技術調査や技術開発といった活動を行う

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**膨大な労働人口を支えていた自動車産業の米国BIG3(ゼネラルモーターズ、クライスラー、フォード)に1社で取って代わる巨大産業となりつつあったことから、IBMは社名のロゴから”BigBlue”と呼ばれることもある。


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アップルコンピュータがAPPLEⅡ(8bit)を発売してコンピュータ市場の最大シェア30%まで急成長を遂げた1981年、IBMは16bitでの個人向けパソコン市場への参入を表明しましたが、IBMの社内での開発は難航。


海外に目を向けると1970年代には破竹の勢いだった日本企業もNECを筆頭に、三菱電機・日立・シャープ・富士通・東芝などが独自のコンピュータ開発(マイコン)で猛追していました。

特に1982年に16bitCPUを搭載したNECのPC-9800シリーズは国産パソコン(マイコン)としてロングセラーとなります。


IBMは発表済みの発売時期に間に合わせるため当時のコンピュータ業界で主流だったハードウェア、ソフトウェア両方の完全自社開発を諦めて水平分業モデル*を行うことに切り替えました。

*水平分業モデルの登場によってコンピュータ産業におけるそれぞれの企業が得意とする部品・ソフトウェアの開発に乗り出すこととなり、大手企業による独占が崩れ、そのジャンルにおける競争力を高めると同時に勝者総取り状態がもたらされました。

*ビジネスモデルとして自動車産業でフォードにおける垂直モデル、GMにおける分散モデルなどと比較される。

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これによって長らくコンピュータ産業においてはCPU市場はAMDモトローラインテル、GPU市場は元々IBMなどが握っていましたが、nVIDIAATI・AMD(2006年にAMDがATIを吸収しAMDの1ブランドに)などが事実上の市場を二分して競う事になります。

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ハードディスク市場は日立・東芝・サムスンなどが入り乱れましたが、米国メーカー(ウエスタンデジタル45%、シーゲート40%)で約9割超となって大勢が2000年代後半に決します。しかしその頃からHDDに代わる次世代のSSDが登場して新たな競走が激化し始めました。

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メモリー(DRAM)市場も日米韓で激しい競走が繰り広げられますが、最終的にサムスンが市場40%を握ることになり、マザーボード市場では台湾企業3社(ASUS・GIGABYTE・ASRock)で約9割、代表メーカーはASUSの約40%を占める事になります。

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そしてコンピュータ市場が黎明期から普及期に差し掛かったこの時代、訓練を受けていない一般の消費者がコンピュータを操作する上で大きな役割を担ったのがオペレーションシステム(OS)の開発で、頭角を表したのがあの企業でした。


ビル・ゲイツとマイクロソフトの登場

マイクロソフトは東海岸のシアトルで裕福な家庭に生まれたビル・ゲイツ(1955-)とポール・アレン(1953-2018)によって1975年に設立されたコンピュータ・ソフトウェア開発の会社です。

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奇しくもスティーブ・ジョブズと同年の1955年に生まれ、小学生の時にはIQ160と診断された彼もまた天才でした。

幼少期のビルは、子供にはやや抽象的な本を好み、理解が難しい言葉は辞書や百科事典などを開きその内容を体系的に自分の中で組み立てていくという驚異的な学習能力をかなり初期から身に着けていたとされています。

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1968年、進学した裕福な家庭の子供たちのための私立学校レイクサイド中学・高校では近くにあったゼネラル・エレクトリック(GE・当時世界最大の家電メーカー)とのタイムシェアリング*によってGE-635(下記画像)がいち早く導入され、最新のコンピュータ教育の導入を目指していました。

*時間貸しや現在で言えばサブスクリプションのような月額課金制

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目新しさに多くの子供たちは最初飛びつきましたが、当時のコンピュータは操作が難しいことなどからあっという間に誰も見向きもしなくなってしまいました。

読書家のビルは、自分の中の考えをシミュレートするという能力がプログラミング能力と結びつき始めていました。

そして自分で思いついたプログラムを試したくて夜中の学校に忍び込んでしまいます。


しかし誰もいないはずの真夜中の学校のコンピュータ室に先回りしてキーボードを叩く人物がいました。

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2歳年上のポール・アレン、彼もまたゲイツと同じくこの新しい機械を自分で操作したくて夜中の学校に忍び込んだ一人でした。

(コンピュータ室で作業する当時の二人の写真)

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アレンはどんな時も何冊もの本を持ち歩き、ちょっとした時間も読書をする人物でした。その博識なアレンとゲイツはその後急速に仲良くなり、アレンがワシントン州立大学に進学し、ゲイツが高校生だった時に二人で交通量を計測するシステムを開発。

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このプログラムは収益にこそならなかったもののゲイツが大学生になっても続けられ、並外れた情熱と集中力でプログラムを行う能力が開花し始めていました。


ゲイツは1973年にハーバード大学へ進学。応用数学を専攻しますが、成績は芳しくなく、ポーカーなど遊びに興じることが増えていたそうです。

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1974年、2年生に進級したゲイツと同じ寮に1年生としてスティーブ・バルマー(後のマイクロソフト二代目CEO)が入寮するなどしてその後まで続く関係が始まります。


1974年12月、アレンからコンピュータ雑誌にMITS社の『Altair8800』に関する記事が載っていると紹介されAltair8800用のBASICインタープリタ**(プログラム)開発を思いつきます。

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**インタープリタ型=コンピュータ言語に通訳を通して逐次命令を出す方式(命令を即実行できる点では優れているが、入力=通訳が大変…)

コンパイラ型=人間の言語を機械語に翻訳したコンパイラ型言語を機械に読み込ませ、実行させる方式(機械に読み込ませる速度は速いが、他のOSやCPUなどの環境下では流用ができなかったり、難しいため汎用性で劣る)

Java=基本的にはコンパイラ型に位置づけられるが、仮想マシンの中で実行するため、この中で実行する場合には他のOSやCPUでも利用できる。


1970年代当時のコンピュータは我々が今日イメージするパソコンとは大きくその操作方法もプログラム開発も異なりました。

何しろマウスもアイコンもなく、もっと言えばどんな風にプログラムが動いているかさえパイロットランプの明滅などで判断する必要があり、特殊な訓練を受けていないと分からない程でした。

しかしBASICインタープリタというプログラムを組むことが出来れば、コンピュータに英語でプログラム(命令)を入力することが出来るようになります。

ゲイツはAltair8800の現物に触ったことがない段階で、大胆にもMITS社に電話をして(未成年だったのでアレンの名を語り)「現在開発中であり、間もなく完成する。御社に伺ってお見せしましょうか。」とカマをかけました。

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MITS社のエド・ロバーツ社長(アラン・ケイと同じく「パーソナルコンピュータの父」の一人)はこれに対して「最初に動くBASIC(プログラム)を持ってきた人と契約する」と答え、ゲイツとアレンはそれに応えようとプログラムの開発に着手を始めます。

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Altair8800現物を入手することが出来なかったゲイツとアレンは、ハーバード大学にあったPDP-10(上記画像)でAltair8800をエミュレートするプログラムを作成した上で、8週間二人がかりで寝食を忘れて試作Altair8800用BASICインプリタ(AltairBASIC)を作成します。

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1975年3月、ニューメキシコ州アルバカーキにアレンがMITS社へのデモンストレーションのために単独で飛行機で向かいますが、飛行機の中で起動用プログラムの設計が漏れていたことに気づいて到着までの時間でプログラムを補完する神がかり的なエンジニアリング能力を発揮。会場に到着するまでに完成に漕ぎ着けます。

そして実際のデモンストレーションでは挑んだ他の全てのエンジニアたちがAltair8800を動かせなかった中で、ただ一人完璧な動作をさせてみせ契約を勝ち取り、アレンは大学卒業後、MITS社に入社を果たします。

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ゲイツはボストンのハーバード大学の寮から夏休みの間、アルバカーキのMITS社で働くアレンの元を訪ねてAltairBASICの製作完成を目指してのめり込むうちに大学へ通うのも忘れ、遂には休学をしてしまいます。

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そしてアップルコンピュータより一年早い1975年にゲイツはアレンとパートナーシップ契約を交わし、Micro-softを設立。

アルバカーキからワシントンへの会社移転に伴い社名をMicrosoftに変更して本格始動します。

(1978年12月7日引っ越しに向けて創業メンバーが集まった時の写真)

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そして1980年、APPLEⅡの成功を観たIBMがいよいよ個人向けコンピュータ市場へ参入を表明します。

IBMが目指したのは既に流通している8bitコンピュータではなく、次世代16bit*コンピュータでの参入でした。

*8bitは2の8乗の256までの計算(処理)が一度にでき、16bitだと2の16乗の6万5536までの処理が可能で両者は256倍の性能差になる。


しかしIBMが発表した発売予定日まであまりの短期間だったために新しいこのシステムに十分間に合わせることができず、MicrosoftにOSの開発を外注することになりました。

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これを受けてゲイツらは作成したOS”PC-DOS”を納品(後にMS-DOSへ改称)。IBMはIBM-PCをリリースして、短期間で市場シェア42%までを急速に伸ばしてアップルコンピュータを猛追する参入に成功しました。

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ウォズの戦線離脱とマークラ辞任の危機下へ転落

ウォズはAPPLEⅡ(8bit)の改良・開発にかかりきりとなり、ウォズを抜きに1980年秋に発売された企業向けコンピュータAPPLEⅢ(8bit)は販売現場の声を重視しすぎて製造され、全くIBM製品に歯が立たちませんでした。

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そして今や年々性能の上がっていくIBM互換機との競合品に、アップルコンピュータはAPPLEⅡ(8bit)の改良型を開発し続けるジリ貧の状況に陥ります。

そんな中で1981年2月、ウォズが操縦する小型飛行機が墜落する事故で一命をとりとめるものの、5週間にわたる意識不明*により戦線離脱。

*事故の衝撃による記憶障害とされることもある

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不安が囁かれる中で上場企業として市場からの資金調達と信頼を確保するために、またマイク・マークラ(二代目CEO)の辞任表明に伴い、経営者としてウォール街からの信頼も厚く、IBMに対抗できる経営者を早急に探す必要性に迫られていました。

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ジョン・スカリーCEOとの「ダイナミック・デュオ」

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IBM参入とMicrosoftによるMS-DOS投入によって急速にシェアを拡大してアップルコンピュータが追いかけられる中で、ジョブズはペプシコ(ペプシコーラなどの飲食物の製造販売を行う企業)のCEOジョン・スカリーに白羽の矢を立てます。

スカリーは14歳でテレビのブラウン管に関する発明をしますが、日本のソニーが一足先に特許申請*を出していたという天才でした。
*ソニーのブラウン管テレビの代名詞となるトリニトロンテレビに関する特許

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広告代理店を経て、ペプシコ初のMBA修了者として勤務していたスカリーはCMにマイケル・ジャクソンを起用したり、ブランド名を伏せて複数のコーラを飲んでもらいペプシが美味しいと伝えるペプシチャレンジ*を行うなどの挑戦的なマーケティングを駆使してコカ・コーラを猛追。

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ペプシコをコーラの二大企業へと押し上げた立役者であり、マーケティングにも精通した人物と考えられました。

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プレゼンテーションやマーケティングを武器に若くして富裕層へと駆け上がってきたジョブズ。

彼は16歳年上のスカリーを兄のように慕い、そして熱烈にアプローチをしました。しかしスカリーはなかなか良い返事をくれません。

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スカリーはアップルコンピュータの製造や開発現場を見学しますが、新しい産業に感心こそすれ自分自身でその会社を経営していこうとは思いませんでした。

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ジョブズのアプローチが始まってから18ヶ月、いつまでも期待する返事をくれないスカリーに対してニューヨークへ赴いたジョブズは言いました。

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「一生砂糖水を売り続けたいのか、それとも俺と一緒に世界を変えるか?」

エリート街道を歩き続けてきたスカリーは腹をズドンと殴られたような衝撃を受けたと言います。

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1983年、スカリーはアップル・コンピュータの三代目CEOとなり、ジョブズと二人三脚の「ダイナミック・デュオ」として経営を担っていきます。

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ジョブズ肝入りのGUI操作によるLisaプロジェクトの大失敗

しかしIBM-PCに対抗して、1983年6月にジョブズをチームリーダーとしてPARCの開発アイディアを取り入れて開発した初の16bit企業向けコンピュータLisaの販売までもがAPPLEⅢに引き続き失敗。

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1980年、アップルコンピュータは発行株数460万株を1株22㌦で株式公開しました。これは時価総額が約1億(238億円*)であったことを意味しています。


1983年発売のLisaの開発費は約1億5千万㌦(約348億円*)。

販売価格1万㌦は1台約270万円*。

3年後までに約1万台の販売がされますが、それでも270億円しか回収できません。

つまりLisaがIBM-PCに対して完膚なきまでに敗れ、多額の損失を計上。

商業的大失敗に終わったことは明らかでした。*当時の為替レートで換算。


Lisa最大の特徴は現在では当たり前の操作方法の一つとなっているマウス操作によるアイコン(GUI, Graphical User Interface)をクリックしていくもので、特殊なプログラム入力の訓練を受けていないビジネスマンでもコンピュータ操作を実現するという当時としては先進的・画期的なものでした。

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しかしこれが敗因の要因となってしまいます。

何故なら当時のコンピュータ処理能力にはあまりにも負担の大きいGUI。ピクセル単位でビットマップを描写して、これを動かすためには当時宝石*のように高価だった大容量メモリーチップをIBM互換機搭載メモリーの20~30倍もの価格で仕入れて搭載しなければならない上に、当時としては高精細なディスプレイ上で表示しなくてはなりませんでした。

*GUI操作の精度を確保するために解像度の高い高精細ディスプレイが不可欠だった。

結果、開発当初は販売価格2,000㌦を目指してスタートしたLisaは実際に販売される時には10,000㌦に迫るものでした。


そしてGUIの有用性を理解しつつ、当時の処理能力ではまだ実用段階とは言えないと高価すぎるメモリーを搭載しない戦略を取ったIBMとビル・ゲイツ率いるMicrosoftのIBM-PCは市場で企業・個人両方の市場で大いに売れ、これが当時の事実上のコンピュータの標準(ディフェクト・スタンダード)となっていきます。


IBM-PC IBM5150(16bit)

CPU: Intel 8088 4MHz

メモリー16KB(最大拡張256KB)

12inch(320×200)

販売価格1,565㌦(当時の為替レート換算で約31.7万円)


Lisa(16bit)

CPU: Motorola 5MHz

メモリー5MB(5,120KB)

12inch(720×364)

販売価格9,995㌦(当時の為替レート換算で約203万円)


そしてお気づきの方もいらっしゃると思いますが、このコンピュータの名前Lisaはジョブズの娘と同じ名前でした。

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アップルコンピュータは正式には”Local Integrated System Architecture”の頭文字を取って”Lisa”とOSに名前を付けたと発表していますが、ウォルター・アイザックソンが『スティーブ・ジョブズ』を執筆する際に質問したところジョブズ本人が「僕の娘にちなんだ名前に決まってるじゃないか」と答えたと言います。


Lisa販売の大失敗に伴ってジョブズはLisaプロジェクトのリーダーから外され、代わりにアップルコンピュータが1978年に買収した企業の一つBannister and Curn社出身のジェフ・ラスキン率いるマッキントッシュ*開発チームに入ります。

*ラスキンが好んだリンゴの品種McIntoshから社名と掛けて名付けられたと言われている。Mcはイギリス英語で「○○家」の意味で、元々は姓を表す。

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Bannister and Curn社はラスキンが1976年に設立したAPPLEⅡ向けBASIC言語を制作する会社でした。

そして社員番号31番が与えられたラスキンは出版部門*責任者、新製品開発調査業務が与えられます。

*黎明期のコンピュータがパンチカードなどによる印刷機に準じるものだったことからシステム開発というのは出版に位置付けで呼ばれていた。


ラスキンは開発中だった企業向けコンピュータAPPLEⅢは高価で複雑で難しすぎると酷評。更にラスキンはウォズらエンジニアが考える拡張スロットなどはコンピュータを複雑にするだけで害悪の存在とまで呼びました。


そして廉価で気軽に、特別な訓練を受けていない人でも使えるコンピュータを提唱。1979年にマッキントッシュ開発チームが結成されると販売目標価格500㌦が設定されます。(実現がさすがに困難としてすぐに販売目標価格1,000㌦に変更される)

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しかし創業者であり、独創的なアイディアを持つジョブズが移籍先のマッキントッシュチームに加わると、彼はLisaプロジェクトで実現できなかった高い理想をそこでも追求し、ラスキンら初期開発チームとの対立・分断によって、アップルコンピュータとマッキントッシュ開発チームは混乱していきます。


続く


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