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Ⅱ:ビデオゲームの夜明け~任天堂とゲーム産業の歩み【幻滅期】⑪

1975年、任天堂のビデオゲーム参入の意外なきっかけ

ATARI社に家庭用ゲーム機のLSI*を提供していた日本企業、三菱電機はその販売先を探して奔走していました。

*集積回路の一つ、トランジスタを高密度で集積したもの。今日ICや半導体、マイクロプロセッサと呼ばれるものとほぼ同義

任天堂にもその声がかかりました。

「ATARI社に納品する予定だったLSIを安く提供するから家庭用ビデオゲーム機を作ってみる気はありませんか?」

同時代、任天堂も娯楽と名の付くものにはとりあえず参入して商機を探っていました。当然、ビデオゲーム市場にもアーケード機でいち早く参入。

1975年にはゲームセンターで見かけるあの競馬の勝ち馬を予想するメダルゲーム機(EVRレース)の走りのモデルを投入していました。

そしてこの三菱電機の申し出をきっかけに、廉価に大量仕入れをしたLSIを用いて家庭用ビデオゲーム作りにも乗り出し、開発:三菱電機×販売:任天堂というタッグで最初に発売されたのが「COLOR TV-GAME15」でした。

COLOR TV-GAME15(販売価格15,000円)とCOROR TV-GAME6(販売価格9,800円)併せて100万台以上の大ヒットとなりました。

そしてこのヒットを受けて任天堂はアーケードゲームとして日本でも大人気だったATARI社のBREAKOUTを模した「COLOR TV-GAME ブロック崩し」(13,500円)を家庭用ゲーム機として発売します。

若き日の宮本茂氏

本体デザインは後に同社の伝説的ゲーム「ドンキーコング」「スーパーマリオブラザーズ」「ゼルダの伝説」など数々のヒット作を生み出すゲームプロデューサー宮本茂氏によるもの。

しかし開発遅延などによって販売時期が遅れ、約40万台の販売というそこそこのヒットに留まりました。


翌年にはレーシング112(1978)を発売し、家庭用テレビにつないで難易度を112パターン楽しむことができる玩具として差別化を目指します。(販売価格12,800円)

※1975年にはエポック社からテレビテニスが発売されているが、販売価格2万円とやや高額で遊べるゲームの数も限られていた。


ノウハウや経験を蓄積した任天堂はいよいよビデオゲーム市場に本格参入を果たし、1980年に入ると「ドンキーコング」や「マリオブラザーズ」など同社を代表するシリーズの初期モデルもこの時期にボウリング場やビリヤード場などの片隅にアーケードゲームとして登場します。

また1980年にはアーケード用基板をそのまま流用した「コンピュータTVゲーム」を民生用として発売開始。ただし、遊べるゲームは電子オセロ1つのみ。

販売価格48,000円。大学初任給が10万円の時代に…(苦笑)

ほとんど売れず商業的に大失敗も経験します。

時々、大ポカをやらかすのも任天堂らしさですね…。

(そもそもよく考えれば高額なハードを買ってわざわざオセロをビデオゲームでやる意味が分からない…当時はネット対戦など存在しなかったし)

そして価格があまりに高額だとビデオゲームに手が出ない家庭も少なくないと考え1つのハードで、1つのゲームだけが出来る廉価版の開発を模索します。

任天堂のアイディアマン横井軍平が仕事で新幹線に乗って移動中、車内の暇つぶしにポケット電卓を押して遊ぶビジネスマンの姿が目に留まりました。

偶然にも横井がこれから向かっていたのはその電卓を作っている大阪のメーカーのシャープでした。

シャープに着いた横井は商談とは別に、この電卓に使っている液晶画面を使って何か新しい遊びができないかと持ち掛けます。

シャープ中興の祖、佐伯旭は「マネーフォワード」社長の辻庸介の祖父にあたる

電卓の売上が頭打ちになっていたシャープでは当時の社長:佐伯旭(シャープ二代目社長)のところまでその話が上がり、液晶ディスプレイを用いた電卓サイズのゲーム機の開発がスタート。

そして「ゲーム&ウォッチ」(1980)が発売されます。販売価格5,800円。
様々なキャラクターともコラボレーションをしてディズニーやスヌーピーなどの登場するゲームも多数登場しました。

また興味深いのがマルチ画面(ドンキーコングやマリオがプレイできる)のモデル。今見ると後のあの機種の原形にしか見えないですね(笑)

そして後のゲーム機のコントローラには欠かすことのできない十字キーがこの頃から登場します。

この十字キーというアイディアも、横井軍平によるものでした。


その他の同時代の家庭用ゲーム機の代表格にはエポック社などの製品も数多くありますが、詳しくは下記参照。

任天堂がゲーム&ウォッチでビデオゲームメーカーとして新たな一歩を踏み出した頃、海外では世界のビデオゲーム史に残る大事件が起きていました。


インベーダー移植後のATARI社とワーナーの思惑違い

1980年、ワーナー・グループ傘下となっていたATARI社。タイトーの世界的人気を博したアーケードゲーム『スペースインベーダー』がAtari2600に移植されると、家で遊びたいがためにAtari2600とゲームソフトを求める消費者が玩具店などの販売店に殺到。

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何処の販売店でも売切・入荷待ちが続出し、ATARI社もワーナーもこの世の春を謳歌していたはずでした。

しかしその後ATARI社は分割され、崩壊していきます。


1981年にワーナーから絶好調のATARI社に送り込まれてきた人たちスーツ姿の新しい経営陣(スーツ族)たちは何処の販売店でもAtari2600が売り切れなのを販売絶好調、飛ぶように売れているではなく、やがて機会損失と考えるようになります。

ATARI社の工場ではこれほどの需要があるにも関わらず、彼らは残業や土日出勤をしようなどと考えません。

ATARI社では元々、創業者のノーラン・ブッシュネルがそうであったように、金曜の昼が近くなると仕事の手を止め会社内を牛の被り物をしてうろうろしはじめ、昼を迎える頃には庭などでビヤパーティーやBBQを始めるような大らかな職場でした。

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一方でワーナーから送り込まれたスーツ族は経営の玄人でした。ATARIの社員たちとは別に自分たちの判断でもっと売上をあげられるようにと定石を模索するようになっていました。

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この時、ビデオゲーム市場は前年よりも更に旺盛な需要拡大を見せ続けており、今年も来年もさらに市場は倍々に拡大するだろう。少なくとも市場規模38億㌦とかなり強気の見込みをしていました。

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ワーナーのスーツ族たちはこの好調な市場に対し販売店に予約注文制を取りるという先手を打ちます。いつも入荷待ちだった販売店にとってもこの提案は渡に船でした。

そしてこの頃から同社はロイヤリティに目がくらみ、ホイホイと中身を精査せずに次々にサードパーティーが作るゲームソフトもライセンス料さえ支払えば簡単に製造を認めてしまい、悲劇への布石を打ってしまいます。

一方でブッシュネルら創業者が去ったATARI社に残った従業員たち(ジーンズ族)は経営の経験がない素人ばかりが残っていました。


待望のキラーソフト『パックマン』移植

更に1982年、同社はアーケードゲームで『スペースインベーダー』以上の世界的大ヒット作(後にギネスブック認定)となっていたナムコの『パックマン』(1980)のAtari2600への移植を12月25日に控えていました。

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『スペースインベーダー』が移植で大いに売れた成功経験から、この『パックマン』を遊ぶためにAtari2600を更に多くの消費者が求めて今以上に売れるだろうと予想。

『パックマン』の予約を開始すると驚くべきことに1,200万本を受注します。

ATARI社のAtari2600は未だ世の中に600万台しか出荷していませんでした。


これはまだまだ行けると、販売店に1982年のクリスマス商戦に向けての発注を同年夏に求めました。

これに対してスーツ族たちが先に受付をし始めていた予約販売制が注文した半分の数しか未だ入荷してこない事に業を煮やした販売店は発注書に2倍の台数を水増しして書いてしまいます。(つまり見込みの市場規模は4倍に到達)

その注文書の数を見て、もはや明らかにATARI社だけでは年末までに製造が追いつかないとスーツ族に判断されるとAtati2600互換のゲーム機のサードパーティー製造までライセンス料を支払うことを条件に認めてしまいます。

しかし結果的に、予測はこれを大きく外してしまい1983年のビデオゲーム市場は前年比150%の30億㌦に留まりました。


アーケードで大人気だった「パックマン」はAtari2600に移植され販売が開始されましたが、Atari2600の販売に貢献しなかったのでしょうか?

「あのパックマンが家で遊べる」と宣伝されていたにも関わらず。

実は移植されたソフトはAtari2600のグラフィック性能ではアーケードのような5つのキャラクターを縦横無尽に動かすということが出来ず、4つのキャラクターは点滅をするだけ。

開発マネージャーがAtari2600への移植は無理だと言うのをATARI社が押し倒してしまった結果、名作パックマンは北米では詐欺パックマン(劣化パックマン)と呼ばれ、アーケードゲームとはまるで別物の手抜き商品だったことも消費者の顰蹙ひんしゅくを買ってしまいます。

クリスマス商戦、1,200万本もの発注に対して最終的に700万本が売れたあたりでユーザーたちの口コミが広まり多くのユーザーたちが買う手を止め、500万本という途方もない在庫が売れ残ってしまいました。

それでも通常であれば700万本のヒット作です。見込みよりも少し下振れした程度のはずが、市場が崩壊するようなことなどあり得ないはずでした。


しかし強気な需要見込みでアクセルを踏みっぱなしでクリスマス商戦の頃には一年先の受注を受付するという過剰生産に突っ走っていたATARI社。

荷物を沢山積んだトラックが急には止まらないのと同じで、大きくなったARARI社は既に経営判断がスムーズにできなくなっていました。


興行収入世界一の映画『E.T.』への期待

また同年、同時発売を控えていたのはユニバーサル・ピクチャーズが大ヒットを飛ばした映画『E.T.』。

当時、世界歴代興行収入1位だった『スター・ウォーズ』を抜いて世界一の興行収入を叩き出したスティーブン・スピルバーグ監督による代表作です。

「JAWS」「インディー・ジョーンズ」に続き「E.T.」も大ヒットした頃のスピルバーグ監督


ATARI社はこの映画にちなんだAtari2600用ゲームソフト『E.T. The Extra-Terrestrial』に活路を見出そうとします。

多額のライセンス料(2,000万~2,500万㌦)でユニバーサル・ピクチャーズと契約をして出荷本数400万本を予定していました。

ATARI社は90%は売れるだろうと目論見ます。業績などの成長率も50%増は固いと生産体制のアクセルをベタ踏みのままにしていました。

しかし『E.T. The Extra-Terrestrial』はたった6週間で作られた中身スカスカのものでした。

*The Extra-Terrestrial(地球外生命体)

結局、販売はタイトルの有名さで約150万本までは売れますが、買ったユーザーからはクソゲー呼ばわりされ、口コミが広まり年明けには全く売れませんでした。

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同作は現在ではゲーム史上”伝説のクソゲー”認定(殿堂入り)を果たしているほど。※なお、そんなに言うほどヒドくはないが、期待とのギャップで酷評されることが多い。


当然、皮算用して作ってしまった250万本が売れ残り、ATARI社はライセンス料の回収さえできず、大赤字へ転落。

更に、更に悪い事というのは続きます。

増えすぎた劣悪なサードパーティーが追い打ちをかけます。

これまでゲーム制作などしたことがない企業、食品会社やペットフード会社までもがビデオゲームは飛ぶように儲かると企画・製造し販売するようになっていました。

北米のビデオゲーム市場にはこうして粗製濫造されたクソゲーが次々に市場に投入されていきます。


悪夢のアタリショック

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思えばATARI社はブッシュネルが社長の時代はエレベーターで彼の腕を捕まえて話して説得すればトップダウンで物事が決まっていました。

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しかし今やATARI社は何事も会議を開かねば物事を決められないスーツ族たちが経営の実権を握っていました。

大局を見ることができる経営陣などもはや当時のATARIにはおらず、会議は長引き、局面を打開する決断をする頃には既に状況が変わっているのも常でした。

こうしたサードパーティー企業によるソフト、ハード製造をホイホイ承認してしまったATARI社の信用は地に落ちました。

ATARI社は遅すぎる経営判断の末に、1982年12月に大幅な下方修正を発表。同社の株価はこれを機に暴落、いわゆるアタリ・ショックが発生してしまいます。

製造ライン拡張のために1万人の従業員を抱えるまでになっていたATARI社は一気に2千人まで人員削減を発表。

会社から「一時間以内に荷物を整理して出て行ってくれ」と言われる従業員もいたほどです。

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そしてビデオゲームの競合メーカーやトランジスタ(LSI)を共同開発する隣接業界にも余波は飛び火していきます。

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※イメージです。

その頃になって発注をしていたAtari2600が水増しした発注数の通り販売店に押し寄せるように入荷を始めます。

半年先、1年先とどんどん前倒しでの予約をかけていた量産体制がクリスマス商戦に間に合わせて整ったのです。

こういう点でスーツ族たちは本当に仕事がデキる人たちだったと言えます。しかしこの時に限っては何もかもが裏目に…;つД`)

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アタリショックに端を発して玩具販売の大手トイザらスなども株価急落という負の連鎖が始まり、中には破綻をする中小メーカーも現れ始めます。

年明けに販売店は遂に店頭や倉庫に並べきれないAtari2600の過剰在庫をATARI社へ返品し始めますが、返金を受け付けるだけのキャッシュが株価の下落や生産能力の増強によって既に割かれており、返品を受け付け出来ない状況に陥ります。


返品を受け付けてくれないメーカーや倒産したメーカーに対して小売店は店頭でたたき売りを始め、更にゲーム機本体の互換機が売り出された事で純正のゲーム機本体やソフトの値下げは加速。

ゲームソフトはそれまで1本30㌦(約7,000円ほど)だったものが、瞬く間に5㌦(約1,200円)にまで値下がり。中には2㌦(約480円相当)で売られるゲームソフトまで出てきてしまいます。

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更に低価格になったゲームソフトは多くの消費者に歓迎されましたが、結果的に安く手に入るゲームは叩き売られる理由があったゲームという事で、いわゆるクソゲーばかりを消費者は掴まされることになります。

そして意欲的で善意のメーカーがきちんと作った正当な価格のゲームソフトを手に取って試してみようという勇気などユーザーの多くにあるはずもなく、北米のゲーム熱は昨年までの熱気が嘘のように冷めていきます。

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当時はインターネットもなければゲームレビュー雑誌もまだない時代。
1986年に入って日本ではアスキー社からパソコン雑誌『Login』より派生してファミコン通信が創刊された。現在はKADOKAWAによって出版されている

しかし一番悲惨なのはゲーム機ハードです。まさかつい先日まで何処へ行っても売り切れ、入荷待ちだったAtari2600が今や全く売れません。明らかな過剰供給でした。

そして低価格な互換機や他社メーカーがこれまでATARI社がほぼ独占していたビデオゲーム市場にノウハウを手にしたことで丸ごと乗っ取り始めていました。

1982年夏、コモドール社がゲーム機能を備えたコンピュータ「コモドール64」を発売。

時間経過によって半導体の性能は向上し、価格は廉価になる現象によって今度はATARI社が追い越される番でした。
そしてAtari2600の需要を食い始めていました。

更にコレコビジョン、マテル、エマーソンなど様々な企業から様々なゲーム機が次々に登場。

マテル1980年インテレビジョン
1982年、コレコビジョン
1983年、Emerson Arcadia 2001(アルカディア)

しかし安い互換機やゲーム機には安いなりの理由がありました。

壊れやすかったのです。

これに対してATARI社は赤字覚悟で互換機やライバル機を駆逐するためにAtari2600の値下げをする強硬策を実施。

すると今度はユーザーが中古市場に売ろうとした時には新品の方が安くなっているのですからもはや誰も買い取ってくれず、まさに駄目押しです。


結局、このアタリ社の暴落によって当時のアメリカに存在した殆どのゲーム開発会社は連鎖破綻をし、世界初のサードパーティーゲームメーカーActivisionなど一部のゲーム開発会社はAPPLE IIなど普及機に入ったコンピュータ向けのゲーム市場へ移動し生き残りを模索することになります。

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Activision社は1982年に『ピットフォール』(Atari2600向け)で『スーパーマリオブラザーズ(1985)』が登場する以前の世界で最も売れたアクションゲームを開発。

1999年にはMac用ゲームソフトでスケボーゲーム『トニーホークプロスケーター』を発売。

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近年ではMMORPGの先駆けDIABLO(1997)などを代表作に持つ仏ベンチャー企業ヴィヴェンディのBlizzard Entertainment社(1991年創業)と2008年に合併し、現社名アクティビジョン・ブリザードへ改称。

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大規模多人数同時参加型オンラインRPG(MMORPG)の先駆けとなった

合併後の代表作はFPS(一人称視点のシューティングゲーム)の『CALL OF DUTY』シリーズ(2003~)など。今日では何かと話題のEpic Games社『フォートナイト(2017~)』などと競合する人気シリーズを開発・配信して存在感を示しています。

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一方、その震源であり崩壊の引き金を引いてしまったATARI社。

1976年にワーナー・コミュニケーションズに買収された時には2,800万㌦だったATARI社は、1982年には20億㌦まで市場価値を高め大いに貢献していたはずでした。

しかし1982年から1983年にかけてのこのアタリ・ショックによって5億㌦の赤字を出し、頼みの綱の次世代機Atari5200は対応ソフトが少なく価格が暴落していたAtari2600対応ソフトと比べて高いと敬遠されてまるで普及しませんでした。


都市伝説は本当だった?!ATARI:GAME OVER(動画)

1983年9月、このままではワーナーに見限られると感じていたATARI社は世の中に溢れるほど出回ってしまったAtari2600やゲームソフトの在庫を減らすため、ニューメキシコ州アラモゴード*の砂漠にこの大量の返品されたゲームソフトを市の許可を得て、決して掘り返されることがない土地に夜間埋めるという強硬策を行います。

*世界最初の核実験が行われた地。

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バックトゥザフューチャー(BTTF)3でタイムスリップした荒野の撮影地(モニュメントバレー)に隣接する場所と表現すればその風景が想像しやすいでしょうか。

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地元紙は「夜間に倉庫からトレーラー20台ほどが何かを大量に運んでいる」と報じ、ATARI社は「そんな事実はない。新製品への切り替えを予定している」と否定します。

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しかしそのトレーラーの行き先アラモゴードでは子供たちがこの立ち入り禁止の砂漠から無数のゲームソフトやゲーム機を掘り出して手にしているという嘘のような都市伝説がまことしやかに語られるようになります。

<画像をクリックするとニコニコ動画リンクへ>

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歳月は流れた2013年5月、アラモゴード市はカナダのドキュメンタリー映像制作会社に半年間の期限付きでこの処分場の発掘作業を認め、2014年に発掘調査が行われました。

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発掘場所からはおよそ1,300本のゲームソフトが発掘されましたが、元ATARIの社員で処分を担当した一人ジェームズ・ヘラーは「実際に埋設したのは728,000本である」と発表。

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発掘調査隊の考えているよりもかなり深い場所・広範囲な場所に相当数を埋めていたことが判明しています。

※噂では350万本のビデオゲームソフトが埋められたと言われることもある。

そして北米でビデオゲームユーザーの心理が焼け野原となった大逆境の1983年7月15日、任天堂は日本国内における大乱立のトイ&ゲーム戦争に白黒をつけ、あの家庭用テレビゲームを発売開始。

世界のビデオゲームメーカーへの階段を上り始めることになりました。

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ビデオゲーム市場でATARI社と異なり任天堂が大躍進を遂げるようになったのは失敗から学ぶ姿勢、そして特許を味方にしたビジネスモデルの確立にありました。

これについてはまた別な機会に。

続く


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