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If you fall, I will catch you, I'll be waiting time after time.

別れが苦手だ。いや、別れが苦手じゃない人なんていないと思う。けれど敢えてそう書くぐらい、殊更自分は別れというものに人一倍傷つきやすい人間なのではないかと自覚している。逆を言えば、それほど一人一人との人間関係に執着や縁、そして情を強く抱いてしまうからだと思う。

ある程度ドライに生きることを覚え、昔に比べると器用になったはずだけど、やっぱり真摯に人に向き合うということへの夢、そしてその苦しさを意識させられる瞬間は突然降って来る。今自分はそこで悩みながら、過去に色々そうした面で経験した苦くて切ない記憶の数々を思い出す。今日はそれらを振り返りながら、自分の本当の気持ちについて考えてみようと思った。

・真摯に人に向き合って、誰かと心を交わし合う。それが夢だった。

真摯に人に向き合うこと。それがこれまでの自分の最大の長所であり、そして最大の弱点だった。真剣に人に向き合うほど、破綻した際の傷は深まるし、自分と同じほど相手は自分のことを求めてなかったことに絶望するし、わずかな場面を除いて、自分の人生においては苦しい結果を生むばかりだった。

真摯に向き合ってそれが最終的な幸せをもたらす、と夢見ていた。信じていたかった。けれどそれが悉くうまくいかなかった自分は幾度となく死と向き合う夜を過ごしたし、結果生きるために夢を手放すことにした。いつかは叶えられる日が来るかもしれないが、それには相応の強さが必要だと知ったから。一度夢を眠らせて、その間に強くなろうと。

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28歳にもなって、誰もがやっているそんな生きるための手段をようやく身につけ始めた。そしてかなり楽に暮らせるようになった、ある程度幸せも感じられるようになった。けれど同時に人と心を深く交わし合うという機会がなくなってしまった。

ひとまずはそれでよかった、程々な関わり方しかしないぶん、別れることがあっても傷つかずに済むようになったからだ。悲しいが、今の自分には必要な技術だった。けれど、数年かけて築いたその生き方が染み付いてしまい、人と深く向き合うということを忘れてしまった。

・人との向き合い方を忘れたところに、人と向き合うことを迫られる事案

そんな最中、久々に自分は人を好きになった(結果的には終わってみると然程苦しくもなかったので、恋愛と呼べほどでもなかったのだが)。その感情との向き合い方を完全に忘れてしまっていて困った。向き合いたいと思う相手が現れてしまった、でも向き合い方を忘れてしまった今の自分、そして長らくそう行動する勇気が欠落してしまった今の自分には、それは恐怖や不安といった感情ばかりを煽った。

自分の弱さにあらためて気付かされる感覚。人を好きになるというのは、弱い自分が姿を表す瞬間でもある。自分はこんな自分を見たくなくて、人付き合いがドライになったし、その間に自分を高めて強くなろうとしていたのに、数年経っても人を好きになった時に現れる自分は相変わらずの弱さでダサくて情けなくて、でもあくまで情だけは深いという厄介な人間だった。

・過去の自分は、誰かのためになれることを夢見ていた

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その件はさておき、これを過去の自分だったらどうしていただろうかと考えてみる。あっさり言える。20代前半の自分だったら迷うことなく飛び込んだ。なぜって怖くなかったからだ。

それで仮に自分の身が滅びようとそれでも構わなかったからだ。自分にとっての第一の生きる意味「自分が誰かのためになれる」を叶えられるなら、その結果死んだって構わないと思っていた。一種の破滅願望だ。

自分は、自分が長年のうつ病経験で死にたい夜を何度も何度も過ごしたことがあるからこそ、同じように苦しむ誰か、その中でも生きようとする誰かを助けられる人になりたかった。それが自分が生き延びた意味だと思いたかったから。どれだけ打ちのめされようと、死にたい気持ちに追い込まれようと、それで自分の想う相手が救われる瞬間があるならそれで良かった。

だからその結果、いわゆるメンヘラと呼ばれる人に好かれやすかったし、散々搾取されてこちらが病んで死にかけたことも何度かある苦笑。でもその人たちを未だに恨む気にもならない、なぜって自分が憧れて進んで引き受けたところも否めないから。結局、自分本位でしかなかったのだと思ってる。

・苦しんでいる人たちにとって都合のいい相手である自分

過去、色んな悲しく重いルーツを背負う人たちと出会ってきた。自分はなぜかその話し相手に選ばれる。優しそうなのか、なんなのかは知らない。気分は悪くない、他の誰でも理解できるわけじゃないことを話してもらえるのだから。けれど突き詰めれば誰でもいいという結果にいつも行き着く。

多くの人は主には自我を形成する家族環境の段階で恵まれず、愛情を実感できずに育っていて、そこから歪んだ価値観や人付き合いを繰り返して雁字搦めになった心が動けずにいる。幸せを実感できないどころか、不幸せな自分が当たり前と麻痺してしまっている。麻痺した状態は苦しさを程々に軽減できるが、幸せも信じられなくなっていて、受け取り方次第では莫大なエネルギーになり得る愛情を拒否してしまう。

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彼らの多くはその場から動こうとしない。幸せが実感できないどころかイレギュラーで怖いものだし、自分は不幸で当たり前という予防線でダメージを軽減できる状態が染み付いているから。とはいえ、不幸が当たり前という状態による苦しさも勿論ある。だからその苦しさの一時しのぎに話し相手を求める。

そして自分はその相手としてとても都合がよく見えるらしい。けれど、実際それに上手く対応できる人間は情が深い人ではない。逆にドライでないとダメだ。相手がどうであろうが気にしない、自分の気分でいつでも切り捨てることのできる人。自分は残念ながらそうではない。情があるから話を聞くし、最終的に自分が手をかけることで相手が元気になってくれたら嬉しいというエゴがあるから。

・「助けたいなんてアンタのエゴでしょ!」「どうせ忘れるよ私のことなんか」

たった1ヶ月しか関わらなかった人がいる。20歳の頃の話。彼女はツイッターで知り合って、とてもユニークで魅力的な人だったけど、同時に自身の環境から鬱に苦しんでいた。彼女と直接会ったけど、その苦しみ、彼女自身の中へどう入っていけばいいかわからなかった。結果、中途半端な向き合い方に終わってしまい、彼女は俺を軽蔑した。

「簡単に“わかる”なんて言うな。」

「助けたい、なんてアンタのエゴでしょ。こっちはそんなの求めてない。」

「どうせみんな忘れるんだよ、私のことなんて」

2つ目の言葉は痛烈だった、そうかこれはエゴなんだと気付かされた。その時言われた言葉は今も忘れることはない。声は忘れたけど、顔は忘れたことがない。向き合う力が足りなかった自分を恨みながら、その後もこの言葉が折に触れて頭の中で反響する。ごめんね。だけど、君のこと忘れたことないよ。どこかで元気になってたらいいなってずっと思ってるよ。

それ以来、苦しいものを背負って生きる人との向き合い方を考えたり実践したり色々学んだつもりだ。何度も心折られたけれど向き合わずにはいられなかった。けれど未だに身を結んだことはないし、自分がこれに関して成長できた実感はない。誰かと向き合う度、この言葉が頭を支配する。

・忘れようのない曲、そして歌声。

こうして短い関わりに終わって、今どこで生きてるかも知らない人たちが何人かいる。この記事のタイトルはCyndi Lauperの名曲“Time After Time”の一節だけども、ここで取り扱うのは本人による原曲ではなく、Charaがハナレグミとのデュエットでカバーしたバージョンだ。

これまたネットで知り合った子だったが、彼女もまた絶望の中にいて、前者と違うのは他人との関係の中に自分を見出そうとする人だった。数人同時に恋心を囁いていたので、自分はそういう点では相手できなかったのもあるし、やはり全てを支える立場になる力がなく、お付き合いをお断りした。

電話越しで泣き崩れていたけど、それは俺を好きだからじゃなく、恋愛相手ができて誰かに縋れる可能性が一つ無くなったから、だと思う。きっと彼女も例に漏れず、誰が相手でもよかった。残念ながら自分はそれに応えることはできない。彼女はもう俺のことを覚えてはいないだろう。けれど俺は彼女を忘れようがない。なぜならこの曲を教えてくれたのは彼女だったからだ。

彼女は歌がうまかった。透き通りつつ芯のある歌声で、それはあらゆる俗世の中で絶望する中で唯一の希望を声で描いているような無垢な響きがあった。当時このバージョンを知らなかった俺は、自分が理想とする曲に出会えたような気がした。なんて美しく、悲しく、そして優しい歌なんだろうと。

“If you're lost, you can look and you will find me
Time after time
If you fall, I will catch you, I will be waiting
Time after time”
“道に迷ったってあなたは私を見つけられるわ
何度だって
あなたが倒れたとしても受け止めるわ 待っているよ
いつだって”

シンディ・ローパーの大らかな歌声でどこか背中を押されるような安心感を覚えるポップな原曲に比べ、このカバーバージョンはキーが半音上げでピアノだけの静謐な伴奏の中歌われるため、どこか焦燥感や切なさといった感情が漂う。同じ歌詞なのにまるで響きが違う。

諭すような原曲に対して、どこか自分自身に祈るような切なる響きが伴う。この曲を歌った彼女が誰かにかけて欲しかった言葉のように感じたし、自分もその後から今もこの曲をカラオケでよく歌うけど、誰かに向かって歌うと同時に自分に向かって歌っている気持ちになる。

自分はこうした言葉を、そして行動として示せる強さの人になりたいんだろう。だから、誰かのためになれなかった時、この曲が響く。それまでの人生を悔しく思いながらも受け入れて進むしかない。

・それでも、いつか誰かと向き合って、心が交し合える日を夢見て、生きていく。

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ざっくり2つほどエピソードを書いたけども、他にも沢山様々な出会いと別れを経験してきた。円満な別れは一度もなかった。心のどこかでわかってる。人には人を救えない、は言い過ぎだとしても、少なくとも俺には誰も救えない。誰かの人生の立ち直るきっかけになりたいなんて、どれほど傲慢な夢なんだろう。

それがわかっているから人の中に飛び込めなくなっている。更に自分がいくら飛び込めたつもりでいても、相手が「向き合ってくれてない」と感じたらそれまでで、結局何一つ向き合ってないのと変わらない。どうすることが向き合うということなのか、わからないまま今自分は選択の時を迫られている立場にいる。

「ごめん、今の俺は力不足です。あなたと向き合う力がない。」

これまでの人生で何度心の中で呟いてきたセリフだろう。その思いが巡る度に目の前が滲んだことも忘れない。悔しい悲しい切ない。それでも夢は捨てられない。いつか自分が想う誰かのためになれる日が来ると。つまるところ、そのために自分は生きていくのだから。

これが叶わない時は毎度、生きてる意味そのものを否定された気持ちになる。けれど叶う日までは死ねない。誰かの記憶に残響できて初めて、人は生きていた証が残るのだから。すいません、今回はいつにもまして長々とオチも脈絡もない独白でした。