サマーリコール
「『あの夏に乾杯』、でなにか話せる思い出がないかって?」
私の投げたなにげない質問に思うところがあるらしい。先程までの会話よりも低いトーンでそう返してきた。
「そう、ちょっときれいめな夏の思い出。なんかない?会社で聞かれててさ。」
机の上には冷やしトマトと梅水晶に、突き出しのハムカツが並んでいる。
冷やしトマトは鮮度がよく、キンキンに冷やしてあることが皮の張りから見て取れる。鮮やかな赤色の皮にはうっすらと汗をかいている。切れ目もスパッと美しい。ポン酢とマヨネーズが添えられている。
梅水晶は涼し気な小さい器に品よく盛りつけされている。軟骨は薄く透きとおっており、細く、長く繊細に刻まれている。梅肉が加えるほんのりとしたピンクがその塩っけを口内に想像させる。
「夏に乾杯した思い出なんてない。ていうか俺がそういう思い出あるタイプじゃないって知ってるだろうが。」
「まぁないとはおもってるけど。でも本当に一つもないわけ?高校の友だちと海に行ったりだとか、大学のクラスかサークルかでキャンプに行っただとかさ。」
「うるさい。ない。バイトの帰り道に一人で缶ビールを飲んで帰ってたくらいしか記憶にない。」
「そういえば金ない大学の頃からビールにこだわってたよね。発泡酒じゃなくて。」
「一緒のくせに。お前だって昔から発泡酒飲まないだろ。」
まぁ、そうなんだけど。ビールをゴクリと飲んでトマトを口に放り込む。夏にはほどよい酸味とビール。うめっと小さく叫ぶ。
ここはハイネケンなどのライトビールから、ハイエンドのリッチなビールまで、どれを選んでも600円台で飲める店だ。安くはないが高くもないのでたまの飲みの場で利用している。料理はほとんどがワンコイン前後で頼める。突き出し代はとられない。
「第一、きれいな思い出なんていうものはあると言えるやつの方がおかしい。そもそも体験したことは頭の中には歪み編集された形で格納されるんだ。だってそうだろ、体験を正確に思い出すことなんて誰もできないし、思い出の順番も曖昧だったりする。そのときにみていたドラマや漫画の風景、曲のイメージ。そういったものが大いに脚色を加えて思い出として形成していく、いわば創作物なんだよ。だからきれいな思い出なんてだれも本当は持っていない!ゆえに俺だけそういった思い出を持たないわけではない。全ては妄想。みな同様。」
「別にその妄想でいいんだけどさ。」
「じゃあ、きれいめな夏の妄想があるかと聞いてくれ。」
「ますます磨きがかかってるね、それ。長生きするよ。」
ビールの二杯目を頼む。梅水晶が早速なくなっている。
「お前こそ夏の妄想、ないわけ?今の奥さんと当時どこかでかけたとかさ。」
「思い出ね。まあ一つや二つはあるよそりゃ当然。ただこれを会社で話すわけにはね。」
「それならこの場で話せよ。俺がいい感じにエピソードにまとめてやるよ。」
大きめの器にのせられたホッケの焼き物と、きれいなまだら模様をしただし巻き卵が来た。少し体を冷ましたあとは湯気モノ。これぞ居酒屋コンボ。
「そうねぇ、例えば水族館に花火を見に行ったときのこととかかなぁ。音楽と合わせて打ち上げる花火ってやつがあってさ。それを観に水族館に言ったんだけど、当時は全く金が無くて、夕飯をやっすいフードコートで食べたんだよね。そしたら。」
箸で簡単に崩せるだし巻き卵に、水分少なめのよく絞った大根おろしをのっけて醤油をかける。とろっとした卵と出汁の香りが湯気とともにかおに当たる。口に運ぶ。あつっ、でもうまっ。
「そしたら?」
意外にも話の続きを催促してくる。口の中が熱い。
「ハ、ハフ、あつっ。ン、その時間帯、に、唯一売っていたタコスみたいなのが、高校の文化祭レベルよりもまずくてさ、お互いにそのあまりのまずさに思わず笑っちゃいながらビール飲んだんだよね。花火よりもまずい思い出の方がはっきり記憶に残ってるよ。」
「なんかそれもどこかで聞いたことあるような内容だな。むずがゆい。」
「はは、前に話したかもね。」
「まぁ、そうかもしれない。」
ホッケを箸で崩す。身がギュッと詰まっていながらも、箸を押し込むと脂が吹き出すほどにジューシーだ。ほぐすその所作だけでビールが飲める。
ビールの三杯目を頼む。今日は暑いからか、いつもよりいいペースだ。
「そのときはどこの水族館に行ったんだよ。」
「あー、どこだっけかな、横浜の鴨川シーワールドとかだったかな?」
「鴨川は千葉だバカ。横浜ならシーパラダイスじゃないのか。」
あれそうだっけ?
「まじで?あはは、ごめん、全然違うか、でも確かにそんな感じの名前のところ。」
「ずいぶん適当な思い出だな。」
お、刺盛りがきた!石鯛、かんぱち、ひらまさ、まぐろ、すずき、たこ。夏を感じるものが多い。海魚ばかりだけど小川の清涼な風景を思い出させる盛り付けだ。
「それじゃきれいな思い出、ないし妄想、でいいからそっちの話も聞かせてよ。夏に酒を飲んだはなしを何かさ。」
「別にきれいなものなんてない。大して外にも出なかったし。バイト先で徹夜しながら当時コンビニで出始めたばかりの夏おでん食べたみたいな話しかない。」
それは私も似たような記憶がある。
「そういうのでいいよ。なにか聞かせてよ。」
かんぱちを頬張る。うまい。脂がのっている。それをビールで流し込む。背徳感。
「じゃバイトの話で。当時学習塾でバイト講師のリーダーみたいなことを任されていて、たまに当直をしてたんだよ。」
「へぇ、珍しい。でも俺も塾講師してたときに何度か校舎に泊まったことあるよ。当直ってうちのところだけの文化かとおもってた。」
また似たようなことをしてるなこいつは。
「ほう、なら話が早い。塾って大抵の場合繁華街にあるだろ?だから夜中になっても外がうるさくて、酔っぱらい学生が叫んだり円陣組んだりして、どうせ明日には覚えていない結束の確認をしていたりするんだよ。バカバカしい。」
「わかる。どこであってもおこる現象なんだな。同じ学生でありながら別の星系からきた生物だと思ってた。」
「そう。それでうるさいながらも黙って寝ようとしていたら、思いっきり窓ガラスに空き缶を投げつけられて。」
ビールを飲む手が止まる。
「危ないな、ガラス割れなかったの?」
「ガラスは大丈夫だった。ただ入り口においてあったノボリをしまい忘れていて、それが」
「破れてた?」
「そう、それで翌日こっぴどく叱られて、なんで俺が謝っているんだこのやろうって腹立たしくなったことをよく覚えている。」
「…ついてないね。」
「本当にそう。生徒の親ともうまくいかないことが多かったし、そういうこともあってその後すぐ辞めてやったよ。いつ頃だったっけなそれ。たしか、」
3杯目のビールが空になる。
「冬。冬だよ。帰り道に雪が降っていたし、心も寒いし鍋の材料買って帰ろう、なんつって珍しく感傷的なことを思ったって。」
ペースが早すぎたのか鼓動がいつもより早い。
「そうそう!そんなこと考えてたなそういえば。この話前にしたっけ?」
「いや、あー、うん、多分聞いたんだと思う。」
ビール、水族館、バイト、当直、窓ガラス、鍋。
「おえ、まじかよ、話をしたことを忘れるとは…。同じ話を繰り返すじじいになる未来を俺はもう受け入れるしかないんだろうな。記憶は儚い。ところで皿も空だし、なにか追加してくれよ。ビールも空だろ。」
机の上の刺し身はもうなくなっていた。冷やしトマトも梅水晶もホッケもだし巻き卵ももうない。いつの間にか腹もいっぱいになっている。
「いや、今日はハイペースで飲んだからか、これ以上もう食べられないや、ごめん。早めに切り上げるよ。それよりさ、その鍋って何が入ってたか覚えている?」
ドク、ドク。心臓の鼓動がやけにうるさい。
「鍋の中身?いや、流石に覚えてない。鍋食ったことは確かなんだがなぁ。何入れたっけな、そんなに鍋食わないから覚えていても良さそうなものだが、確か、」
ビールを飲んだばかりの口が渇く。口を開く。
「水炊き、じゃない?彼女が水炊きの鳥を食べれば体も心も温まるからそれにしようよって。」
「彼女?」
「あのとき一緒に暮らしていた彼女がいただろ?その彼女と一緒に食べる鍋の材料を買って帰ったんだよ。」
「あー…、そうか、そうだったな。」
そこで彼はふと席を立とうとしてイスを引く。私の先程までの鼓動音は嘘のように収まっている。
「悪い、トイレ行ってくるわ。」
「わかった、先に会計済ませとくよ。」
店員を呼んで会計を済ませる。店員がニッコリと笑って言う。
「お会計は端数切り落としまして5600円になります!」
好きです