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3/10にっき 充実の巻末付録(妥協不可能という全能感を得るためのメソッド)付き。

今日は3/10らしい。やばすぎる。何がヤバいって、別に無為に費やす日々に対して無感動でなんにも感じないと思ってたのにヤバいって頭で呟いたからです。まぁ俺の無意識が暇をもて余して暇潰し感覚で危機意識があるポーズをとったってだけなんで、やっぱヤバくなかったです。今日はヤバくないです。やばいとか言ってすみませんでした。謝って済むならいらないものってなぁんだ?答えはフライパンでした。今日も昼前に起きた。何を食べても何かを食べているという感覚以外のどんな感覚も得ることができない(正確には意識するに値しないと俺が勝手に結論している)という実感にいちごジャムを塗って食べた。社会におけるコミュニケーションについて想像を巡らせたときに俺の想定通りだったためしがないかもしれない。俺って結局自分のことばっかり考えてるカスなんで、社会がどうしたいのかとかって本で読んで得た知識として知ってるだけで、こいつ(俺)は脳ミソの微妙な隙間に社会についての知識が偶然、絶妙に納まることを発見して、「おっ!ぴったり入るじゃん!押し込んどけ!へっ!へっ!」ぐらいの精神で社会という概念を脳ミソに入れたに過ぎないんですよ。こいつ(俺)にとっての社会の価値って結局その程度の精神に由来したものでしかないんですよ。これって俺以外もそうなんですか?そうだとしたら人間が社会的なのって大層な妥協ですよね。全人類による茶番劇場ですよね。もうなんか逆に愛おしいから価値を与えられたみたいな狂気に身を委ねた喜劇ですよね。まぁそうするしかないならそうするしかないことでしかないんですけどね。俺もそうするしかないと思い知っている。…なんかどんなに言葉を探しても何を書いても、「諦めることで、前を向こう!」ってニュアンスしか拾い出せない文章に仕上がるんですけど、俺はそんな俺以外の人が絶対かけてくれるだろう言葉を言うつもりは毛頭なくて、当然、一切の妥協のない。俺の意志を完全に反映した、俺以外の全員にとって価値がなくても、最低限俺にとってだけは最上の価値がある言葉を吐き散らしたいだけなんですよね。この最低限俺にとってだけはっていうのは妥協にはあたりません。なぜならさっき言った通り俺は結局俺のことばっかりだからです。いちごジャムを塗るということは、いちごジャムを塗るぶんだけの妥協をしないということなので、いちごジャムを塗っているとき「俺はいちごジャムを塗ることを妥協していないぞ!」って思って、すっごく嬉しかったんですよね。嬉しすぎて、意識するに値しないと結論づけていたものは、いちごジャムにすっかり塗り潰され、いちごジャムに伴って俺を味覚的にも満足させました。この経験で俺は、完全に脳内のいちごジャムを使いこなす感覚をマスターしました。それをこれから特別にみなさんに伝授したいと思います。

まず、脳内にいちごジャムがないと話になりません。これからの話は脳内にいちごジャムがあることが前提になりますので、もし脳内にいちごジャムがない人は急いで買いに行ってください。よろしこお願いします。

さて、それではみなさんの脳内にあるいちごジャムに意識を集中させてみてください。いちごジャムが見つからない人はもうひとついちごジャムを買いに行ってください。というか、脳内にいちごジャムを発見できるようになるまで何度でも買いに行っていただくことになります。

見つかりましたか?…おっしゃる通り。蓋が閉まっていますよね。この状態ではいちごジャムを取り出すことが出来ません。どのようにして蓋を開けるのか、現実のいちごジャムの蓋を開ける際には手を使うことができます。しかし、脳内に手はありません。脳内に手を見つけ出すということも、いちごジャムと同様に可能性としては0とは言いきれませんが、物理的な腕を生やしている我々にとってこれは生半可な意識の成せる技ではないでしょう。詳細な説明は省きますが、物理的な腕を無視し、観念的な腕を意識の内に作り出すということは、物理的な腕を切り落とすことでようやく現実的な可能性を獲得します。しかも、仮に腕を脳内に発見したとしても、この腕を動かし、指を瓶の蓋に引っかけ、力を加え、蓋を開ける、この一連の観念的行為は、腕を脳内に見いだすこと、ましてやいちごジャムを見いだすこととも別の仕事なのです。これらのすべての意識を同時並行で行うというのは常軌を逸しています。人にはそれぞれ好き嫌い、つまり、選好の基準があり、観念的行為も当然この基準の影響を受けることになります。いちごジャムと腕を脳内に同時に見いだすこと。私の場合この時点でお手上げでしょう。いちごジャムと腕に同様の種類の意識、つまりこの場合は「愛」を注ぐことは私にはできません。いちごジャムを愛している間に、いえ、愛したその瞬間に観念的な腕が消失し、いちごジャムについての意識に腕を介入させることは叶わないでしょう。もし、いちごジャムと腕を同様に愛することが出来ても(そんな人が居たらキモすぎる)、まだまだ仕事は残っている訳です。腕を動かそうとするといちごジャムが消えるでしょうし、いちごジャムの蓋に指をかけようとしたらいちごジャムが消えますし、力を加えてもいちごジャムは消えるでしょう。蓋を開けた瞬間に消えたなんてことになって、再びいちごジャムを脳内に発見したものの蓋が元通り閉まっていたなんてことになったらもう目も当てられません。一生立ち直れないのではないでしょうか?(爆笑)

話が長くなってしまってすみません。端的に纏めると、2つの対象を同時に脳内に発見することはおろか、細かい行為を行うというのは、おそらく誰も到達したことのない意識の限界への挑戦であり、無謀なため推奨できないという話でした。

それでは実際的な話に移りましょう。実際的な話が観念的なこともあるなんておかしな話ですよね(爆笑)←最近、爆笑っていう表現にハマってしまったもので、つい出てしまうのですが、お気分を害されてしまっていたら申し訳ないです。見逃してください(爆笑)←おっと(爆笑)

いちごジャムについて意識し、いちごジャムを脳内に発見すること、これが一般的な意識の限界です。これ以外の意識を同時に脳内に発見することは変態的であると先ほど話しました。もしかしたらこの話を読んでみなさんは「私には何も成し遂げられないのではないか。」なんてナーバスになってしまわれたかもしれません。

ですが、安心してください。ここから先はそのような思いは、いちごジャムで塗り潰されたように、消え失せてしまうのです。つまり、妥協する必要性と、妥協させられる強制力と、逃れることのできないと思われていた宿命と、完全に袂を分かつという夢の実現が今、あなたの目の前に急接近しているのです。顔と顔の間の距離が急速に縮まり、唇と唇の間の、この前までは無限のように感じられた距離が、無限ではなかったと気づく、もっとも気づいたときにはもう唇と唇がふれ合う瞬間秒読み、二人はあわただしく目を閉じる、そして距離が…消失する。


つまり、妥協しなくていいんだ。という意識である。これがいちごジャムの蓋を取り払うのである。私たちは通常、いちごジャムの蓋を開けるときに手を使う。しかし、足で開けることも可能ではないか?もちろん足を脳内に発見することは手と同様にウルトラCである。だが、この思考である。

手がダメなら足で、足もダメなら…

このように考えていくと、遂に真理に到達するのだ。

手も足もダメなのはなんでだ?…それらがモノ…だからか?いちごジャムと本質的にはなんら変わらない単なるモノ…だから?いちごジャム以外のモノを持ち込むことで解決しようとしてはならないということか。だとすると…あ~…だるい…頭が壊れそうだ。頭の中に発見できるモノはいちごジャムだけだ。それは確かだ。モノ以外はどうだ?…モノ以外によっていちごジャムの蓋を開ける?モノ以外によってモノを…どうする?…ここは脳内だ。現実とは事情が違う。すべてはどう考えるか次第だ。これが答えなのは間違いない。どう考えるか…いちごジャムの蓋が開く。するとジャムが瓶から溢れだし、好きなようになんにでも塗ることができるようになる。一切妥協することなく…あぁ…それにしても、妥協する必要がないなんて。ありがたい話だよなぁ…妥協しなくて良いなんて、あまりにもすばらしすぎる。あぁ…あまりにも感動して涙が出てきた…赤くてドロッとした…いちごジャムのような…いちごジャムだ。…こ…れは……ペロッ……いちごジャムだ。

彼は何が起こったのかその時は何もわからなかったに違いない。目からいちごジャムが流れ出る訳がない。しかし、それをいちごジャムでないと結論することは、いちごジャムをよく知る彼には不可能だった。彼は涙ではなく、いちごジャムが目から流れ出ていると確信した。彼が頬を伝ういちごジャムを嘗めたのは、いちごジャムではないのではないかと疑っていたためではなく、いちごジャムを心の底から愛していたからだった。

この結果は、脳ミソが彼に一杯食わされたために生じた。つまり、自身の脳ミソをそのつもりもなく欺いたのである。妥協しなくても良いんだ。という彼にとっての考えられ得る中で最も感動的な意識が、実際に蓋を取り払ってしまった。蓋を取り払う前から、取り払った後のことについて意識したのだ。蓋を開ける思考方法は思い付かなかった。それはそれとして、彼は一切の妥協をするつもりはなく、意識を…蓋が取り払われて自由自在にいちごジャムを塗りたくる、いずれ到来する感動的な未来をまだ来てもいないのにもうすっかり勝ち誇り、涙を流すほどに意識したのだ。この病的と言っていい意識が彼の脳内のいちごジャムの瓶の蓋を取り払うトリガーだった。いや、蓋が取り払われたかどうかさえどうでもよいのだ。蓋なんて最初からなかったのかもしれない。蓋がない場合瓶さえないだろう。脳内の観念に過ぎないいちごジャムまでご丁寧に瓶詰めされていなければならない道理なんてあるだろうか?現実において、いちごジャムが瓶詰めされているのは社会的な都合があるからに過ぎない。それでも彼が発見したのは瓶詰めされたいちごジャムだった。これは彼にとって瓶詰めされたいちごジャムが一番視認性が高かったという単純な理由で説明できる。彼は瓶詰めという状態から社会の気配を感じとることはしなかった。社会という妥協の総体を見いだすことはしなかった。何故なら彼が意識していたのは、瓶詰めされていながらもその中で、赤く黒く、どろどろと佇んでいる妥協不可能の全能感だけだったからだ。彼はただ、見つけるためだけに瓶詰めした。そして当たり前に蓋をした。あえて障害を設定した。形式としての障害である。彼は瓶の蓋を障害だなんて感じていなかっただろう。なんなら自由に瓶の蓋を開けたり閉めたりすることが、妥協不可能の全能感を引き立てるために必須だと感じていたかもしれない。また、自分の脳内に蓋を開けるためのトリガーがあることも確信していた。彼は自分の能力を信じていた。自分が認知している能力以上の潜在能力が自分の中にあると信じていた。そして実際に、妥協に関する病的な意識という本人の想定を越える潜在能力によって、この試みは成功を納めたのである。

一度蓋を外す感覚を知ってからは、彼は自由に蓋を開けて、いちごジャムを味わうことができるようになった。指にジャムがついていると考えながら指を嘗めればいちごジャムの味がするし、手がジャムまみれになったと想像して、その手を壁にでも押し付けて、その壁の手を押し付けた箇所を嘗めると当然いちごジャムの味がする。不快な匂いもいちごジャムの匂いに変換することができた。彼はいちごジャムを楽しむことに関しては一切の妥協をしなくてすんだ。意識によって、自分の中に妥協不可能な領域を持つこと。彼はそのことを誰よりも重要視していたのだ。彼の意識に関する話から、私たちは何を学べば良いのだろうか、自分を持つことの大切さだろうか。しかし、この男はなんらかの精神的疾患を患っていることは明らかであるし、そんな人間を参考にして、自分の人生について想いを馳せるべきではないだろう。我々は彼について考えるとき、物理的にも精神的にも十分な距離をとり、「こんな人間もいるのか。」程度の無感動な認識をするだけに留めるのが賢明なように思われる。


ん~…ありゃ?キスしてたらいつの間にか誰かが代わりに文章書いてくれたみたいです!やったー😃✌️



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