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華氏451の芸術:ヨコハマトリエンナーレ2014


From Here

美術の教科書の最終ページに載っていたコーンスープの缶の絵には、ピンとこなかった。
それは私の思う「美」ではなかったし、記号的で、そこで為されている批判はあたりまえのことだった。

しかし、上京した2011年のヨコハマで開かれたのは、教科書に〝まだ〟載っていない芸術が会するトリエンナーレであった。
そこで表現されていたのは今自分が生きている現代のことであり、自身を取り囲むものひとつひとつの不思議や恐怖を示し、それまで持っていた感性をすべて崩されるような感覚さえ覚えた。

君よ、忘却に気付け

「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」と題された、第5回ヨコハマトリエンナーレ。3年に一度開かれる国際美術展である。今回は美術家の森村泰昌がアートディレクターとして全体の構成をはかった。彼が掲げたタイトルの「華氏451」は、1953年にレイ・ブラッドベリが書いた小説『華氏451度』に基づく。1966年にはフランソワ・トリュフォーによって、当時のフランスの映画運動であるヌーベルバーグの流れの中映画化された。

華氏451(1966)
監督:フランソワ・トリュフォー/原作:レイ・ブラッドベリ

本を読むことが禁じられた未来。消防士(Fireman) は家の火を消すのではなく焚書を仕事とする。「人々が本を読んでありもしない人生に惑わされて不幸にならないように」もとい、本を読んで何かを考えるという能力を持たないように、本が燃えだす温度である華氏451度(=約233℃)を掲げて、統制をはかる。
それに対して一部の人々は、本を暗記し、「書物人間」となって抵抗する。

森村泰昌による「忘却」の定義

森村氏は、ここでいう「忘却」に、ただ忘れることだけはなく「人々の中から故意に消されたもの、無かったことにされたもの、統制されてしまったもの」という意味合いも持たせた。そしてこのトリエンナーレに集める作品を、「書物人間」に照らした。
日々の生活の中で忘れられていくものや、社会や時代によっては「反社会分子」とされるような作品が眼前に曝されることで、我々はやっと忘却していたものの存在に気付く。

この展覧会は、何度も「芸術とは何か?これは芸術か?」と問いかけてくる。彼は、それぞれの時代で忘れられている忘れてはいけないものを危険を冒してでも我々に突きつけ、心にぐちゃっとした何かを残すものが芸術であり、それらは今も確かにあるということを示した。

本展で示されたのは、まだ教科書のどこのページの話でもないのである。

2014.10 執筆


2023年に思い出す

12年前の第4回ヨコハマトリエンナーレで、私は価値観の崩壊を体験した。
その衝撃を受け、第5回ではスタッフとして毎日展示に向き合った。
ほとんどは「写真撮影はご遠慮いただいております」と制止する仕事だったが、誰もいない時にはずっと1対1で作品と向き合っていた。お陰か、9年経った今でも、担当していた会場の作品群を覚えている。
ごく稀に、海外作家の作品などは、後に観に行った美術展でも展示されていた。大きく「撮影OK」と書かれていて、必死になってカメラを止めていた私が馬鹿みたいに思えたりもした。

たまに「この作品は何?」と聞かれるから、答えられるようにスタッフ控え室には公式パンフレットが置かれていた。学芸員はほとんどいない会場だったので、そこに明文化された事実だけを列挙した。もしかすると「忘却」された文章だったかもしれないが。


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