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わたしが娘のお受験をやめた理由

わたしは毎朝、電車の指定席に乗って通勤している。

追加で数百円を払うだけで、ギュウギュウの車内でスペースを確保する戦いに巻き込まれることなく、座って行くことができる。

このチケットを入手するのはそれなりに大変なのだけど、でもその価値はあると思っている。

指定席チケットを買った列車に遅れそうなときは、雨と蒸し暑さとでぐちゃぐちゃになりながら小走りで駅に向かう。

その列車を諦めさえすれば、髪もメイクも脇の下をじっとり濡らす汗もそこまでひどいことにならないとわかっているのだけど。

でも、

「あの列車に乗りさえすれば」

そう思いながら、わたしは走るのだ。

その先に続くことば

「あの列車に乗りさえすれば」その先に続くのはなんだろう。

「自動的に目的地までたどり着ける」
「いまはぐちゃぐちゃの体勢を立て直すことができる」
「そこから先は頑張らなくて済む」

こんなところだろうか。

わたしにはこれが、早期教育を行い、子どもにはなるべく早いうちにエスカレーターに乗らせてしまおうと考える親(もしくは子ども本人の)の思考に似ていると思った。

座席数が限られている指定席列車は、そのチケットを入手するのは大変だけれども、それに乗りさえすれば、その後はさしたる努力をせずとも、ただ座っているだけで素晴らしい目的地に連れて行ってくれる。

教育で言い換えてみれば、

とても素晴らしい環境である私立小学校に入りさえすれば、その後は最低限の落ちこぼれない努力をするだけで、付属大学もしくはもっと上位の大学までほぼ自動的に進学でき、卒業後の未来も明るい。

ちょっと前まで真剣に年長の娘のお受験を検討していたわたしは、まさにこんなイメージを持っていた。

多分、こういう風に考える人は、子どもの早期教育を目指さない方がいい。

これは、単なる目的地の前倒しだからだ。

現時点で想像しうる、「一番良さげな人生の目標地点」に「最速で自動的に連れて行ってくれそうな列車に乗ること」を目標に置き換えるだけの行為だからだ。

子どもが列車に乗っている時間は10年以上ある。その間に、「一番良さげな目標地点」が今とは全く別のものになっている可能性は高い。本来、目標地点は常に、自分の中で更新し続けなければならないものだ。

確かに、環境的に優れ、スピードも速い列車に乗ることは、同じ目標地点を目指している人たちと比べた時、圧倒的に有利であることは間違いない。列車に乗りながらも常に自分の中の目標地点を見据えて、「いつでもこの列車を降りてやるぞ」という気概を持つ子どもとそれを認める親であれば、この有利な環境をうまく活用できると思う。

でも、大抵の人はそうではない。

入手するのに苦労したチケットを放棄し、途中下車して他の道を選ぶという選択肢を取れる人はなかなかいないのだ。人は、今現在持っているものを手放すことに対してものすごい痛みをともなう生き物だし、自分が選んできたものは色々な理由をつけて肯定したがる。

列車に乗ることを目標とするのは、リスキーだ。指定席チケットを得るために費やす努力やコストが、娘というよりわたし(親)の目を曇らせる可能性がある。

これが、わたしが娘のお受験をやめた理由だ。

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