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もうすぐ絶滅するというSoundCloudについて 〜uami、君島大空、一人進化系アーティストたちの楽園〜

なんだろう、サンクラなくならないでもらっていいですか?
でもなくなるんだって!
そーゆーうわさ。


A:なんで真夜中にuami聴いて泣かなきゃいけないんだよ!
Q:uamiを聴いたから


uamiは一見すると相対性理論以降の儚げ気怠げウィスパーヴォイス(実際にはやくしまるえつこの声は気怠げではあっても断じて儚げではない、恐るべき意志の強さを感じさせる芯の通ったものだと思うが、イメージとして)の系譜に連なるアレっぽいのだけど、実際には硬派なまでにストイックな音楽家。
たしかすべての曲をスマホのアプリGaragebandで原型を作り声や音を解体・再編集してアレンジを加えるというやり方を取っているはずだが、一曲ずつミックスや音の定位のさせ方などを工夫していて、なにかしら未知のきもちいい/わるい質感を生み出そうとしていることがわかる。
聴き手に触れたい、という思いが伝わってくる。音と声で画面を飛び越えて相手のからだをまさぐりたいという真摯な欲望が胸に迫る。
SoundCloudというメディアは表現者にとって自分専用のラボなり実験工房として機能している側面があり、てめえが作り上げたジャンルの中でただてめえだけが勝手に変容を続けていく“一人進化”の音楽家たちのヘンタイ過程に、ちょうどプライヴェートな日記を覗き見させてもらうようにこっそりその生長に立ち合っているような、スリリングな共犯性が味わえるほとんど唯一のプラットフォームとして、他に替えがたい魅力を放ってきた。
uamiは間違いなくそうした日々繭の中で孤独な羽化をつづける“一人進化系アーティスト”のうちの一人であり、中でも、極めて親密で淫靡な共犯感覚をもたらしてくれる得がたい存在だ。
やはりこれは、CDなどのフィジカル形態でも、まとまった形でリリースされる配信でも不可能な、音の日記もしくらスケッチブックとしてのサンクラのみに備わった優れた特性と言えるだろう。
プロ/アマ、プレイヤー/リスナーの垣根を超えてある親密な秘密が伝達されるという点で𝐈𝐧𝐭𝐞𝐫𝐧𝐞𝐭の正しい利用法を(偶然にも)示し続けてきたメディアが消滅するという事態は、なんとも嘆かわしい。
かく言う僕も、一人進化系アーティストとしてサンクラに籍を置いている身でもあり·····
アウトサイドの進化を許容する社会の余裕としての遊び場、公園の中の小さな砂場がどんどん消えていく。
またみんなでどろんこあそびしようなー!


A:なんで真夜中にuami愛を熱く語らなきゃいけないんだよ!
Q:uamiの音楽が好きだし、スケッチブックのラクガキのように空白を埋めていくSoundCloudの“アルバム”のあり方に救われたから



uamiを知ったのは、とあるアーティストの共演者として·····



引きこもってた時期に君島大空に出会って君島くんのサンクラページに上がっていた15ほどの楽曲群を1枚のアルバムとして毎日通しで聴いて救われていた。このアルバムは日々勝手に自己増殖を続け、即興スケッチ特有の気軽さでノイズ混じりのざらついた筆触のあたたかみを味わわせてくれたものだ。
サンクラには広告が付かない上にバックグラウンド再生も可能だから、ちっとも進まない文章をそれでもどうにか書き進めつつ、もがき苦しみ、頭を掻きむしりながら、君島くんのアルバムを枕にして寝た。まんまる太った見えない猫を間に挟んで兄か弟と一緒に寝ているようだった。猫は詩とメロディーを食べて発光した。
猫の湯たんぽが去ったのは君島くんのアルバムがCDリリースされたタイミングで、サンクラに上がっていた曲が、ある日突然すべて消えた。
うち一部が有料販売されることになった以上無料アップロード分を削除するのは商売戦略的にも倫理道徳的にも当然の判断だが、とにかくあの時にしかなかった、いやあの時にはたしかにあった、“僕のアルバム”はなくなった。
消滅した。
永遠に。
製品化された君島くんのアルバムの曲たちには丁寧なサウンドプロダクションとリアレンジが施されており、素晴らしい内容ではあったが、それは断じて僕のアルバムではなかった。

なんとも勝手な話だ。
しかし、“たまたま”同じタイトルを持つ曲でもアレンジや演奏が違えば、再生環境やプラットフォームが違えばそれは別の曲なのだから、なんとか二つともを残す方策は取れなかったのだろうか?
想像のベッドで安らかな寝息を立てていた兄か弟の姿は今、見えない。猫の湯たんぽのあたたかみも。
でも、いつかあいつが口走った寝言のむにゃむにゃは、つらかった日のひん曲がった記憶の景色だけは、覚えていて。ああもし仮に、あの𝐈𝐧𝐭𝐞𝐫𝐧𝐞𝐭の子供部屋が取り壊しにあうというのなら、僕はメロディー未満の言葉がじゃれついてくる声に耳を遮られつつ生きていくしかないのだろう。


要するに、君島くんは僕の推しだったわけだばーか勘違いすんなそんなんじゃねーよ!ただベッドで猫を抱いて、寝言を共有しただけ。バックグラウンドで寄り添うデジタルなさみしさが、真っ暗な通りを一人歩く時、ふとさみしくなかっただけ。
たぶん、僕は誰かに告白したかったのだと思う。
脅迫的な消費の論理に裏打ちされた推しの倫理が蔓延した時代に、まったく独りよがりで罪深い、無産者の告白を。
そのような事件がたしかにあったのだと、妄想的な蜜月のさらさら落ちる砂時計の感触を、言い訳しない懺悔の形で残しておきたかったのだ。



なにかを好きだと言うことはひとつの信仰の告白であり、罪の告白でもある。
あの悩める年、君島大空のSoundCloudを世界で最も多く再生したのは僕だったろう。



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