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祝婚歌

吉野弘『贈るうた』に掲載された詩。祝婚歌。
どこで、どう知ったのか
もう思い出せないけれど、
Amazonによると、2006年が初版のようなので
上梓されてすぐのタイミングで買ったはず。
もう売っぱらったか、実家に所蔵か。
ほんと、この本を
どこで、どう知ったのだろう。

祝婚歌ネタも、すでに昔ブログにて
ネットの海に放り投げ済みだけど、
改めて新鮮に眺めてみた。
もう、この詩の一節は、わたしの
自戒デフォになって久しい。

祝婚歌という、おめでたげなタイトルに
惑わされてはいけない。
これは手厳しい戒め。

けなすことやケチつけることと、
批判することの違いを
ハッキリ見出せないままだけれど。

イチャモンなのか、文句なのか。
言うほう言われるほう、いずれも
いい気分にはならない。
老婆心であるのだよね、ゴホゴホ
と、古びた演出や
言い訳がましい前提がないと、
自分を守れない、ビビる。

言わずに放置できるものは、いい。
言わなかったことによって、
いつかどこかで後悔の気持ちが出るなら
言っておうこ。

怒るべきときに、遠慮して怒らなかったら
あとあと引きずるのと一緒。

祝婚歌の詩では
正しさという、やっかいなテーマを
とても上手く諭しているので、
心当たりのあるわたしなどは、
ハッとして、誰にもバレないよう
こそっと聞く耳を傾けるしかない。

そんで、うろ覚えだけれど
「贈るうた」を、誰かの
結婚のちょっとした贈り物に
使ったような気がしなくもない。
今一度、弟たちに贈ってみたいかと思う。

自分自身、「正論」好みである期間が
とても長かったし、
今なお、正論で片付けたがたる性質が
はびこっており、、うっかりすると
正しさの剣を振り回してしまうのだな。

二十歳のアシスタントだったときのこと。
すでに先輩の学生アシスタントがいて、
さらに宣伝会議で知り合った新顔が
加わり、アシスタント3人体制の
ゴージャスな時期もありつつ。
二十歳のほやほや社会人は、
会う人すべてが年上。
今でも、相手が年下かどうか関係なく
だいたい敬語になってしまう。
てか、
年齢はそう重要でない、と強く思う派。
1歳児を尊敬して、
80歳を軽蔑することもある。
(と、また正論)

その頃、教科書系の出版社を辞めて
コピーライターの
アシスタントから始めた男子に言われた。
「〜ちゃん。窮鼠猫を噛むって知ってる?」
初めて、わたしはその言葉を知ることになる。

つまり、正論かましてばかりで
責め倒してくるのは勘弁だぜ、
てな、社会人経験ありの
第3アシスタントから
ザ正論の二十歳のアシスタントに向けた悲鳴!
だったんだなと、
かなり大人になってから理解できた。

(それにしても、イマドキの小娘は
 立派な人が多くて、、学ぶことばかり。
 根っこが大人なのかしらん、、具体的に
 浮かぶ人がチラリほらり。
 有名人でいうなら、藤田ニコルみたいな
 青い炎タイプ)

正しさ、とか
怒りの矛先をまちがえたときの収拾つかなさ、とか。
扱いをまちがえると、自分で自分の首をしめる。
この祝婚歌を、その都度思い出す。
ついでに思い出す場面が、もう一つあり。

カトリック教会を、自分の家と言って憚らず
繁く通っていた当時。
同じくらいの年頃と思しき男子が
あまり人に馴染めなさそうなので、、
超お節介のわたしは、差し支えない程度に
話しかけていた。
お節介なのに、愛想笑いができないわたしのせいか
話に加わりたくないオーラを放出され
だんだん、こちらもいやになってきた頃。

ハッと気づいてしまった。

あっ!
あぁぁぁぁ。

片目が見えないんだ。

そのとき、冗談抜きで
頭を何かで殴られたような衝撃があった。

人には、事情ってのがあるんだ。
必ず、事情があるんだ。

たとえ、その事情が屁理屈であっても
自分の想像の枠を超えたところに
その人にとっての
事情はごろごろと転がっているんだ。。

その彼は、目の事情を
悟られたくなかったのかもだし、
それゆえに表情が険しく感じたかもだし。。
ゴリゴリ強引に詰め寄った自分の
自分勝手さにうなだれてしまった。

人によっては、わかりずらいハンディを
悟ってほしいアピールもある。
パッと見ではわかりずらい症状だと
アピールされるほうが、かえって助かる場合も
あったりする。
察するハードルが下がるから。
アピールされるすぎもしんどいものの、
かたくなにアピールしたくない人もいるし。
わたしだったら、たぶん後者。
でも前者にも、必ず事情があるし、
後者に徹しきれる自信はない。

よく言われる格言めいたもので
「自分がしてほしいことを人にもしてあげよう」
的なやつ。
これは、話半分以下で受け止めたほうがいい。
自分がしてほしいことを、
してほしくない人もいるし、
してほしくないときもある。
逆に、自分がしてほしくないことを
してほしいと思う人もいるし、
してほしいと思う場合もある。

毎広への応募だったかな。
当時(って、いつだか忘れた)、
痛烈に批判的に思っていたことがあり。

それは、、、「シルバーシートいらね」。

シルバーシートがないと席を譲れないなんて
幼稚にもほどがある。
そんな思いをどうにかしたい鬱屈を抱えてたとき
横浜の地下鉄で、ゆずが
同じような内容のアナウンスをしてたような記憶が。

誰に怒っていいかわからない怒りを版下に込め、
新聞広告の刷見本を出してもらって
5万から10万くらい払ってたかな。
賞もとれない、高いお遊び。
わたしだけじゃない思いだ!と意気込んで、
表現をちょっと飛躍させすぎてしまった仕上げは、
大失敗。

朝広も、賞がほしいのに
賞がとれないものばっか作ってたし。
しつこく作り続けてて、、
「センスがなくなってきたね」と
まあまあ名のあるデザイナーに言われ
ものすごいショックで、くやしくてまた作って。

おっとっと、、話がそれた。

人に嫌われるのがいや、という余計な恐れは
なくもないけれど、
それより何より、他人にケチをつける自分が
みっともない、という姿が
自分への嫌悪につながるのを避けたかった。
のだが。
多少は、老婆心を出しておかないと
後悔しそうなので
自分のスタイルではない「小出し」で
やってこ、と思う。

長々と書いてみて「和」が出てこないので
困ってる。

空気は読むな!と吠える人もいれば
空気を読め!とあおる人もいるし。

わたしは、、空気は吸うもので
察するものだと思う。

和して同ぜず。

あくまでも、察するのみ。
察してもらったり、の
使役動詞になっては、かっこわるい。
傷つくのは、自分の勝手でやってること。
傷つけられた、と言ったとたん、かっこわるい。
裏切るのは、相手が勝手にやってること。
裏切られた、と決めたとたん、かっこわるい。
使役動詞を使うときは、
あえて使っている、くらいの自覚を持たないと
言葉に呑まれるぞお。

気を遣っていることを悟られないくらい
気を遣える人がいい。
さらに、それすら
見抜ける目を持てる人がいい。
見抜けてしまった暁には、知らないふりして
笑うのがいい。
と、わたしは思う。
これは、茶席において、とくにそう思う。
そしてまた、正論から抜けられない。苦笑

そういうときこそ、
和に親しんで運を開く。
だな。

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