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撫子の花

寒い日が続いています。春が待ち遠しい季節となってきました。
次の歌は、今年いただいたお年賀状に添えられていた藤原定家(このとき25歳)の一首です。
 
霜冴ゆるあしたの原の冬枯れにひと花咲ける大和なでしこ(藤原定家・二見浦百首)
 
「霜冴ゆる」は、霜が冷たく凍り付いた。「あしたの原」は「朝」と大和国の歌枕の掛詞。訳すと、「霜が冷たく凍り付いた朝、朝の原の冬枯れに、大和撫子が一つだけ花を咲かせている」。
 
寒々とした冬枯れの原っぱの中で、可憐に咲き残る一輪の花。優しいまなざしが感じられる歌で、冬の寒さを少しだけ和らげてくれます。
 
この歌に、『源氏物語』の影響を読み取る見方があります(佐々木多貴子・浅岡雅子・神谷敏成『藤原定家 拾遺愚草注釈 二見浦百首』(桜楓社 昭和56年)。
 
「葵の上亡きあと、霜枯れの前栽を見て光源氏が
草枯れの籬に残るなでしこを別れし秋の形見とぞ見る(源氏物語・葵巻)
と我子夕霧を撫子にたとえた歌を大宮に消息している。この一首が定家作に影響を与えていると思われる」
 
撫子は、『万葉集』では晩夏~秋の花です(山上憶良の秋の七草のように)が、平安時代になると「常夏の花」とも呼ばれ、夏の花としてほぼ定着し、愛児の比喩としても用いられるようになります。
 次の中宮彰子の歌は、まさにその例です。
 
見るままに露ぞこぼるるおくれにし心も知らぬ撫子の花(後拾遺和歌集・哀傷・上東門院彰子、栄花物語)
 
詞書に「一条院失せさせたまひてのち、撫子の花の侍りけるを、後一条院幼くおはしまして、何心も知らで取らせたまひければ、思し出づることやありけん」とあります。一条院の崩御は、寛弘8年(1011)6月22日、東宮敦成親王(後一条院)は、このとき4歳(数え)。彰子中宮の歌の「撫子の花」は、父院を失った幼い我が子の比喩です。
 
亡くなった親が、母(『源氏物語』)であるか、父(上東門院の歌)であるかの違いはありますが、親に先立たれた愛児を撫子に重ねるという点では同じ発想、文化から生まれた歌です。さらに『源氏物語』葵巻ではその撫子を「草枯れの籬」に咲かせるという設定が鮮やかで、定家の「霜冴ゆる」の歌を導いたのかなと想像します。
 
 


 
 

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