見出し画像

建久6年東大寺供養と伊勢公卿勅使

今日の大河ドラマでは、建久6年(1195)の頼朝上洛が描かれていました。それに先立つ同年2月、九条兼実(ココリコ田中さん)の子良経が公卿勅使(国家の大事の時、伊勢神宮などに奉幣のために朝廷から遣わされる公卿)として伊勢神宮に発遣されました。

『百錬抄』に「行幸大内、巳時行幸神祇官、被立伊勢公卿勅使、権大納言兼左近大将良経卿、被祈申東大寺供養事也」と記されているように、東大寺供養の祈願を目的としていました。

3月12日に東大寺再建供養が行われることになり、今回の大河ドラマも鎌倉から出向いた頼朝の姿が取り上げられていました。良経は、それに先立って、東大寺供養の祈願のために、伊勢神宮に発遣されたのです。 

しかし、仏事を伊勢神宮に祈願するというのは異例です。そのことは当時においても問題にされたらしく、議論の様子が『建久六年後京極良経公卿勅使記』に書き記されています。試訳で引用します。  

 (試訳)今日殿上議定が行われた。議題は東大寺供養の事を伊勢大神宮に祈願すべきか否かということであった。議論が縦横に交わされ、仏事は神宮に祈願しないものだという意見もあり、また逆に天平の時代に公卿勅使を発遣したという先例が『(東大寺)要録』に見えるので、かの例に任せて発遣すべきであるという意見もあった。また供養の期日が迫っているので、供養が終わった後に発遣してはどうかという意見も出た。こうした議論の内容を後鳥羽天皇に報告したところ、発遣すべきである、そして天平の例では橘諸兄が発遣されたが、今回は大臣でなくともよいとの仰せであった。 

 この折りの殿上議定の席で、仏事を伊勢神宮に祈願する先例として、天平の世の橘諸兄の例が引かれています。天平の時代に勅使として仏事を伊勢に祈願した橘諸兄の話は、確かに『東大寺要録』に見えます。天平14年橘諸兄が勅使として伊勢神宮に参り、聖武天皇の御願寺を建立したい由を祈願していた、つまり、天平の世において既に仏事を神に祈願する前例があったというのです。そして、諸兄の祈願に対して、「仏法に帰依せよ」というアマテラスの御託宣が下ります。勅使参宮をきっかけにして、アマテラスから仏法興隆、東大寺建立のお墨付きを得たのです。 

東大寺再建事業は困難を伴う大事業でした。その難事業を進めるにあたって、さまざまな「伝統」「先例」が生み出されました。重源がよりどころとした行基参宮伝説もその一つですが、良経が担った伊勢公卿勅使も、天平の世の橘諸兄の伊勢参宮を先例として発遣されたのです。

東大寺再建が行われる際に、行基・橘諸兄・聖武天皇といった、東大寺建立をなしとげた古代の偉人たちの伝承が浮かび上がり、そこに現在の自分を投影させてゆく作業が繰り返されたのだと思います。 

 14日、良経は春日大社に任務遂行の無事を祈願、29日に良経一行は予定どおり伊勢に向かって出立。兼実は馬に乗って旅立つわが子の様子を、大炊御門東洞院から見送っています。 

 建久6年(1195)3月12日、国家の一大事業としての東大寺供養が行われました。天平の世には存在しなかった新勢力の棟梁源頼朝が参加し、武士たちは雨に濡れても身じろぎもせず警護に立ちました。良経の叔父慈円はそうした武士たちの姿を驚きをもって『愚管抄』に書き記しています。

  同六年三月十三日東大寺供養、行幸、七条院御幸アリケリ。大風大雨ナリケリ。コノ東大寺供養ニアハムトテ、頼朝将軍ハ三月四日又京上シテアリケリ。供養ノ日東大寺ニマイリテ、武士等ウチマキテアリケル。大雨ニテアリケルニ、武士等我ハ雨ニ濡ルゝトダニ思ハヌケシキニテ、ヒシトシテ居カタマリタリケルコソ、中中物見知レラン人ノタメニハヲドロカシキ程ノ事ナリケレ。          (巻六)

 新しい時代の到来を見事に切り取った描写です。

この慈円と頼朝が、77首もの和歌、まるでラブレターのような和歌を繰り返し贈り合ったのも、この上京がきっかけとなっています。 

詳しくは、谷知子『中世和歌とその時代』(笠間書院)1章8節「建久六年伊勢公卿勅使について」をご覧ください。

 


家族旅行で伊勢志摩に行ったときにいただいた赤福のおぜんざい


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?