祖父の葬式

 祖父の葬式のことを思い出していた。祖父は五年前、農作業中に祖母に車で轢かれ亡くなった。地方版のニュースにはなってテレビで放送もされたが、事故であり故意ではなかったので起訴も実刑もなかった。おろおろし詫びどおす祖母のことがかわいそうだと思ったが、いま祖母は元気にしていると思う。祖父は貧しいながらもいくばくかの貯金を残していたので、こぢんまりとしたきれいな墓が立った。


 対して祖父の葬式はひどいものだった。死装束を着た祖父は家の中央に寝かされていて、その周りを、小柄な祖父母の兄弟が取り囲んでおろおろしていた。彼らは皆、年老いたコロポックルのようだった。ただひとり、半世紀以上前に青森から嫁いできたという声の大きなおばあさんが、しゃしゃり出てがみがみとわめき散らしながら取り仕切っていた。彼女は、昔は美人で有名で、なおかつ三味線と着付けができたので、祖母の弟の嫁という必ずしも近くはない血縁ながらも、いまだに大きな態度をとれるのだとあとになって聞いた。取り仕切ってくれるのはありがたいのだが、「兄さんきれいな顔してるわ」だの、「ねえさん、あんたのせいじゃない」だの言うので、正直黙っていてほしかった。たしかに祖父の表情はおだやかだったが、車の下敷きになった内臓はぐちゃぐちゃなのだ。それに祖母が轢かなければ、元気にしていたに違いない。だが、誰もそう言えなかった。父がマシンガンババアと陰で呼び、見えないところで連射する身振りをしていた。

 喪主は祖母なのだが、とてもじゃないが精神的に落ち着いていられる様子ではなかったので、同居している長男、叔父が葬儀屋の手配やら町内会への打診やらをしなければいけなかった。しかし頼りにならず、一番安い花を頼んだのでお通夜ではぽっかりとあいたスペースができ、さみしかった。次男である父が何かと尻拭いをした。住職が来たときだって、読経の間中お鈴を鳴らしていなければならないのに、叔父はお鈴を下のクッションではなく直接手で触るものだから、お鈴の音はぴたりと止まってしまった。真っ白な顔をした祖父には紙でできたハチマキとタスキのようなものがかけられていた。長年檀家として寄進をしたり地域のとりまとめたりをしたから、祖父はこれをかける権利があるのだとマシンガンババアが言った。極楽浄土へ行ける証明書のようなものだという。たくさんのお金や時間や労力と引き換えにもらえるのが、こんな紙きれひとつなのかと思うといい商売だなと思った。経をあげにきた住職が、剃髪していないばかりか、夏場だからかオーガンジーでできた舞台衣装のように派手でふわりとした袈裟を羽織っていたので、とんだ生臭坊主だと腹が立った。その住職もそれから一年後に癌で亡くなった。


 祖父母はなんにもない田舎で生まれ、生活を営んだから、祖父母の家のまわりはだだっ広い田んぼと農道以外に何もない。だからお通夜は斎場ではなくて地域の町内会館で行われた。夕食はまさかのカレーで、しかもとんでもないことに、肉の代わりにさつま揚げがはいっていた。掃除は嫁の仕事だったので母親がした。祖父の棺は組んだ手がはみ出ておりうまく蓋が閉められなかった。非力そうな老いた親族がぎゅうぎゅうと乱暴に押し込めていた。とても不快だった。細い脚立みたいなもの二組に棺を乗せ、釘を打つのが、危なっかしくて見ていられなかった。いまにも親戚の足の指めがけてごとりと落ちてしまいそうだった。祖母の、「じいさん、ごめんな」という声も、わたしの耳にはなんだか芝居がかって聞こえた。


 葬式があまりにもぞんざいでめちゃくちゃだったから、わたしには全てがスラップスティックコメディのように思えた。わたしは祖父の死をこれっぽっちも悼むことができなかった祖父の死に顔を見ても、年も年だったし、車が上に乗ったらそりゃあ死ぬよなくらいにしか思えなかった。わたしは本当によく泣く人間なのだが、葬式のために北海道にいる間中一滴たりとも涙をこぼさなかった。

 そもそも、わたしは祖父のことが全然好きではなかった。祖父は会うたびにわたしのことを、横に大きくなっただの、にきびがまた増えただの、嫌なことばかりを言うから本当に嫌だった。祖父は祖父自身が親しみを持つ人が本当に嫌な顔をするまで、当てこすりや悪口を言ってしまう人だった。その悪癖はつよい癖毛と共に祖父から父、そしてわたしに受け継がれた。わたしもまた、人が自分の発言で怒ったり悲しんだりするときに、その人のなかでの自分の存在の重みを実感し、ほっと落ちつくのだ。そんなとき、わたしは自分のなかの祖父を感じ強く嫌悪する。祖父は会いに行くと必ず、飛行機代と言ってお金を包んでくれたが、それすらも侮蔑の対価のように感じられ、力関係を示されたようで本当に嫌だった。

斉藤由貴は「卒業」で

卒業式で泣かないと 冷たい人と言われそう
でももっと悲しい瞬間に 涙はとっておきたいの

と歌ったが、葬式で泣かなかったわたしは周りに冷たい孫だと思われたことだろう。だがわたしはきっと、もっと早くに泣くべきだったのだ。祖父に、またにきびが増えたと嘲われ、もうこの人と向き合うと疲れてしまうから、適当につくり笑いをして対処していこう、と対話を完全にあきらめたとき。そのときにこそ、泣くべきだった。晩年の祖父は認知症が進んでおり、年に二度ほどしか会いに来ないわたしのことが誰だかわからないようだった。亡くなってから聞いたが、何十年も乗っていなかったバイクで遠くにでかけてしまったり、家にいながらにして家に帰ると言ったり、祖母と叔父で支えるのは限界だったらしい。しかし、わたしのことがわからない祖父はもう軽口や当てこすりは言わなかったから、わたしはかえってせいせいしていたのだった。

 祖母はいまだ存命だがわたしは祖母のこともあまり好きではない。祖母の腫れぼったい目と共に、どうしようもないほどのどんくささがわたしに受け継がれているのを感じるからだ。わたしは自分を形作るこの肉と骨と血と遺伝子に誇りを持つことができない。育ちが悪い。ろくでもない。わたしのこの皮の中には、祖父母の家の田んぼの側溝で育つ巨大なタニシがパンパンに詰まっているのではないかというイメージが頭をよぎる。その側溝ではいまでもきっと、赤ん坊の拳ほどのサイズの数え切れない数のタニシがぎっしりとひしめきあっている。


 祖父が死んだと聞いたときわたしは、好きではないにしろ孫だし、約二十年間の付き合いがあったのだから、葬式になってみれば肉親の情が溢れ死を悼むだろうと思っていた。だがわたしは祖父としっかりと向き合っていなかったから、死を悼むことができなかった。祖父の死はただ祖父の死という事象として目の前にあった。わたしが向き合うべきであった人間と永久に向き合うことができなくなったというただそれだけだった。孫という役割に徹して盲目的に祖父の死を悼むことができなかったことは、わたしを絶望させた。きっとこの先わたしは、向き合ってこなかった多くの人間の葬式でぼうっとする人間になるだろう。自分の結婚式でも泣かないだろう。わたしはもっと盲目的にその場に即した役割に徹したいのだが、「でももっと悲しい瞬間」のせいで人と向き合うことをやめてしまう限り、こういうことは起こるだろう。


 わたしは幼いころ函館に住んでいたことがあるのだが、そのときのわたしは夜、祖父と寝ると言って聞かなかったという。じいちゃん、じいちゃん、と慕っていたと母は言うが、わたしにその記憶はない。わたしは自分が太っていてにきびだらけだから祖父がわたしのことを好きでないのだと本気で思っていた。いまでさえ、わたしがもう少しかわいげがある孫だったらもっとよい関係が築けていたのではないかと思うときがある。


 もういまとなってはどうしようもない話である。わたしは祖父の思い出や自分のなかの祖父とどう付き合っていけばいいのか、いまだに全然わからない。

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