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家と家族が担っていた「マイホーム」の役割を、コミュニティが満たそうとしている

ココ最近のもっぱらの興味は、「ホーム」と「家」、そして「家族」について考えることが多くなってきた。広く言えば、これからの生き方について考えている。


Wasei Salonでコミュニティマネージャー及びいち参加者として話している中で、よく「心の拠り所」というキーワードが出てくる。

以前Wasei Salonメンバーの平山さんのツイートから、こんな会話をした。


その中で一冊の本をご紹介いただき、昨日(ようやく)開いてみた。

予想以上に面白く、まだ1章しか読んでいないのだが、気づきの衝撃が大きすぎたため、いったん書き記しておこうと思う。

僕の今の考えと疑問をこれでもかと詰め込んだらだいぶ長いエントリになってしまったので、「ホーム」「家」「家族」の3エントリに分けようと思う。

まず、「ホーム」について、考えてみる。


ホームとは"心の拠りどころ"


広義の意味では「ホーム」の定義は僕の中で固まりつつある。

ホームとは、"心の拠りどころ"である。


新しい常識で家をつくろう」の中にも、まさにそのことが書かれていた。

長いがそのまま引用したい。

HOUSE VISION のハウスはハードウェアですが、私はいま大事なのはむしろHOMEという概念だと思います。「HOMEをHOUSEが支えられるか」ということかもしれない。ホームスタジアムとかホームタウンというように、ホームには「ふるさと」に似たニュアンスがあって、実体がなくてもいいんです。心の拠りどころみたいなものです。いま三陸の人たちが求めているのは立派なハウスではなく、心の拠りどころになるホームなんですよね。それはわれわれも同じで、たとえ立派な家を持っていても、そこは本当にホームなんだろうか。本質的に足りないものはなんなんだろうということを考える時期に来ているんだろうと思います。新しい人間が考えるホームには何が求められ、そこにどのような時間が流れるのか、そういうことがこれから問われてくるのだと思っています。


うなずきすぎて首がもげるかと思った。

冒頭のツイートでの会話につながるところで、これまでは「マイホーム」というように心の拠りどころを家に求めてきた。

しかし、一生独身や核家族の増加などこれまでの家や家族のあり方が崩れてきて、心の拠りどころを家族でも会社・学校でもない「コミュニティ」に求めるようになってきたのではないか。


「ホーム」と感じるコミュニティもまた多種多様だ


先日Wasei Salonのもうひとりのコミュニティマネージャーである長ちゃんと、その話題について話し連載記事におこした。コミュニティブームの要因のひとつとして、まさに上述したことを話していた。


記事中に記載されている通り、心の拠りどころと感じるコミュニティも多種多様である。

・人を軸に集まるコミュニティ
・モノを軸に集まるコミュニティ
・趣味を軸に集まるコミュニティ
・「みんなで取り組むこと」を軸に集まるコミュニティ
・価値観を軸に集まるコミュニティ


家と家族が担っていた心の拠りどころは多種多様になり、「自分にとっての心の拠りどころとはなんだろう?」と人それぞれ定義する転換期となっている。

心の拠りどころを自分で定義し選択するということは、自分の納得感のもとに生きていくことなんだなぁと、改めて実感している。


最後に


本の内容を整理しつつ、先日のコミュマネとしての連載を振り返るようなエントリとなった。

また、心の拠りどころとしての「ホーム」について書いたが、ホームは「ふるさと」に似たニュアンスもあると引用文に書いてある。


僕は以前、「ふるさとがたくさん欲しい」と書いた。

この感情も、今日書いた内容に通ずるんだと思う。


ここまでお読みいただきありがとうございました。あと2エントリは、

・「家」の固定観念を壊し、再定義している

・「家族」ってなんだろう?

といった内容で書こうと思っているので、公開したらぜひご覧いただければ嬉しいです。

ありがとうございます。本を読むのに使わせていただきます。