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忙殺

忙しさに殺されると書いて"忙殺"。

「忙殺されてるなー」と感じるとき、何が殺されているんだろうと考えてみた。絶対量として自分の時間がなくなっているのか、自分の可処分所得や持ち物がすり減ってしまっているのか、精神的なリソースがなくなってきているのか。


殺されているのは時間のことなんだろうけど、仕事量が多くてもむしろエネルギッシュな人もいるわけだし、体感時間なんだろう。

意識できなかった時間の経過を自覚したときに、忙殺感を覚える。気がついたら退勤時間になってしまった、気がついたら夜になってしまった、気がついたら休日が終わってしまっていた。

物量的な忙しさではない、主人公タイムの少なさ。自分が主人公になるシーンが減っているとき。


一個体として生きる以上、自分の人生の主役は自分だ。五感のレンズを通して脳で知覚する世界。世に起こるのは誰にとっても同じ事象で、主観で判断するのみ。捉え方で幸に不幸にもなる。客観的に見て絶望的な状況だとしても、当人が楽しいと知覚していたらそれは楽しい。簡単に言ったら怒られちゃうけどね。


どこかで聞いた話で、子どものころに比べて大人になると時の流れが早く感じるのは、新しい経験をすることが減っているからだそうだ。子どものころは何をするにも初めて、何をやっても初挑戦、できないことの連続。毎年の夏休みはそれこそ大冒険だった。脳みそフル稼働。くたくたになってぐっすり寝ていた。

大人になるに連れ「やったことがある」ことがどんどん増えていき、繰り返すようになる。やったことがあるから考えなくてもできる、脳みそは稼働しない、燃費がいい。考えもしないからあっという間に時間が経つ。

人生の時間は有限なのに、効率化の方向が間違っている。

歩け、主人公の自分。

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