7_那智の瀧

熊野古道を歩く(3日目)

 2日目の宿は紀伊勝浦駅から近い港の宿に泊まりました。翌朝は駅から出ている熊野交通のバスに乗りました。
 まず那智駅で降りました。あるお寺に行きたかったからです。この日の目的は神社とお寺が隣り合っている場所に行くことです。その一つが補陀洛山寺[ふだらくさんじ]と熊野三所大神社[くまのさんしょおおみわしゃ]です。

 まず、熊野三所大神社から入りました。上の画像の奥に神社があります。九十九王子のひとつである浜の宮王子跡に建つことから、浜の宮大神社[はまのみやおおみわしろ]とも呼ばれるそうでして、名前の由来は、夫須美大神[ふすみのおおかみ]、家津美御子[けつみみこ]大神・速玉大神の三神を主祭神とすることからだそうです。その隣にあるお寺が浜の宮王子の守護寺である補陀洛山寺です。神仏習合の名残をみることができるというわけです。
 さて、左隣にある補陀洛山寺へと移ります。このお寺は補陀落渡海で知られています。
 補陀落はインド南端の海岸にある、八角形で観音が住むという山のことだそうです。補陀落はもともとサンスクリット語のポタラクからきています。日本では南海の果てに補陀落浄土があるとして、そこを目指して船出することを補陀落渡海と言ったそうです。この補陀洛山寺では住職が60歳になると渡海したそうです。いわゆる捨身行というものの一つですね。平安・鎌倉時代を通じて6人が渡海したらしく、戦国時代では60年間で9人、渡海者が現れたそうです。また、補陀落渡海というのは、この地に限らず、高知県の足摺岬や室戸岬でも行われていたようです。

 上の画像は渡海船を平成初期に復元したものです。屋形には扉が無く、人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されます。屋形の四方に4つの鳥居が建っていて、それぞれ「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表しているそうです。ここに閉じ込められるわけですね。すごい……。
 那智駅の反対側に行くと、すぐに海があります。那智の浜です。補陀落渡海ですが、江戸時代にも、記録に残っているだけで40人、そのうち25人が補陀洛山寺の目の前にある那智の浜から出発したそうです。この海から出発したんですね……(もうちょっと後ろから撮れば良かった^^;)。

 また那智駅に戻り、今度は那智山を目指します。もちろん移動はバスです。バスの本数は少ないので、計画的に行かないと帰れなくなります(笑)
 大門坂という中辺路の一部がありまして、そこを登ると熊野那智大社へと続くのですが、前日の疲労もあるので、ルートを、那智大社→那智の瀧→大門坂で降りる、という具合にしました。那智駅から那智山まで20分もかかりません。那智山の停留所を降りて、那智大社を目指しますが、また階段があります(汗)

 階段を上っていくと鳥居が見えました。なぜ写真を撮っていないのか考えたら、鳥居が二つほどありましたが、全て工事中だったからです。
 この熊野那智大社も、神仏習合の名残で、隣にお寺があります。西国三十三所の一番札所になっている青岸渡寺です。ここが二つ目の、神社とお寺が隣り合わせになっている場所となります。

 那智山は女人禁制の高野山の代わりに女性たちが参拝したところから、女人高野とも呼ばれているそうです。

 お隣の青岸渡寺です。廃仏毀釈によりほとんどのお寺が潰されましたが、このお寺は取り壊されませんでした。呼称は以前は如意輪堂だったそうです。取り壊しを免れたのは西国三十三所の札所だったことが大きいそうです。
 次は那智大社の別宮である飛瀧神社へと向かいます。滝を御神体として祀っている神社です。

 上の三重塔からも滝がよく見えます。
 しばらく下っていくと飛瀧神社の鳥居が見えました。

 この鳥居をくぐると、また階段があります。下り階段ですが、神社まではやや距離があります。

 到着すると、目の前に滝がドーンと目の前に入ってきます。アナウンスだか何だか忘れましたが、今年は雨量が少なく、滝の水量が少ないとのことでしたが、それでもなかなかの迫力です。いくらか収めると更に中に入れます。さらに滝を目の前にすることができるわけです。


 じっと見入ってしまいました。もちろん音も録音しましたが(笑)

 お昼近くになったので、神社から移動して、近くの食堂で和歌山ラーメンとめはり寿司、胡麻豆腐のセットを食べました。さて、後は大門坂を下り、今回の旅の目的を達することになります。

 大門坂、とても雰囲気のある道でした。ここも、熊野古道の中辺路の一部だそうです。十一文関所跡や唐斗石、樹齢の長い大木の間を通り、昨日歩いた熊野古道とはまた違う道を楽しみました(と、いいながら、途中すれ違う人に挨拶しながら漫画並みに苔でコケましたが 笑)

 上の写真は振り返って撮っているわけですが、奥にあるはずの階段が最早一体化してしまっていますね。新しい端末を買ったほうが良いのだろうか^^;

   大門坂はまだ続きますが、いわゆるアスファルトの道になる前の最後の場所が、この夫婦杉のある場所です(樹齢800年!)。普通は登りなので、ここが森の入口となるわけですね。
 ここからしばらく歩いて車道に出たところで、今回の熊野の旅は終わりました。本当ならこの後に、補陀落山寺に行き、海で最後、となると締まるのでしょうが、まあ、何分歩く時間が読めなかったりするので、今回はこれで良しとしたいと思います。この後、紀伊勝浦駅に戻り、荷物をピックアップして、温泉で汗を流すことができました。
 

 今回の総括ですが、日本列島を全て行ったわけではないので、あまり大きなことは言えませんが、熊野のことだけ、というよりは、土地が、風土が人を作る、ということについて改めて考えました。
 自分としましては、特に何かの宗教に縛られる、という生活は送っていないのですが、それでも宗教観ということについては常日頃考えることが少なくありません。どこかで生きている以上、何かに影響はされているということはあると思いますので、何かに縛られてはいない、ということはもちろんないかと思います。
 土地や気候が影響しているのだとしたら、例えば世界の気候というものはこの十年ほどで大分変わってきています。日本でいうと、島国であるところの影響は変わらないにしても、気温が高い日が年間を通じて多くなっていることを考えると、そういったことも段々と考え方などに影響が少しはあるかもしれません。神仏習合のような、他の国からは考えられないようなものも、曖昧というよりはもしかしたら懐が深いという考え方ができなくもないのかなと思いました。
 土地の影響ということで思い出しました。音楽のことです。イギリスの音とアメリカの音の違いです。これは高橋幸宏さんの本に書いてあったことですが、イギリスはジトッとしていて、湿気の多い気候で、それが作る音と深く関係しているという話です。ドラムの鳴りが全然違うそうでして、イギリスでは、ドラムをスタジオに置きっぱなしにしていると、いざ叩くときに改めてチューニングを直さなければならなくなる。かたや、例えば空気の乾いたロサンゼルスだとこんなに大きな音がしていたかと思うくらい大きく鳴ったりする、と。イギリスでは加工する音楽がどんどん流行って、アメリカではナチュラルに音を録るという話を読んで、なるほどなあ、と思いました。アメリカで、ジェイムズ・ブレイクの最初のころの音楽とか、確かに出てこなそうだなと思いました。
 考えていることは、いろいろとあるのですが、また追い追いということで、今回録音した音を時系列に並べて作ったアンビエント作品で締めくくりたいと思います。
 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

[引用・参考文献]
『聖地巡礼ライジング 熊野紀行』内田樹×釈徹宗(東京書籍)

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