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前橋から銚子への遠回り(その1/前橋まで輪行)

 茅ヶ崎から当時、未電化だろうと思い込んでいた相模線に乗り換えたら、いつのまにか電化されていて、ちょっと拍子抜けだった。学生時代の一九八〇年代前半に、茅ヶ崎駅の東海道線車内から見た相模線ホームには、しばしばキハ(ディーゼル客車)が停まっていて、いたく良い風情だったから、いつか乗ってみたいと思っていたのだ。時刻表をよく見れば車両番号でディーゼルかどうかわかるはずなのに、首都圏に近いやや奇妙なローカル線に乗れるということで舞い上がっていたのかもしれない。
 それもようやく思い出せたようなことで、それなりに記憶しているのは、懐かしい自転車メーカーの「片倉シルク」を想起させる「片倉」という駅が、橋本駅で相模線から乗り換えた横浜線の当該区間にあったことと、同線電車が八王子に滑り込む辺りになって気が急いてきたことである。だから、ま、そのあたりから始めるがよかろう。

 なぜ、そわそわしだしたかというと、手元のポケットサイズ時刻表で確認できた乗換え時間に間に合うのかどうか微妙になってきたからだ。八王子駅で横浜線から八高線に乗り換えねばならぬというのに、横浜線は遅れている。八高線はその年、一九九四年にはまだ電化されておらず、本数も少なかった。乗り遅れると、次は一時間以上待たなければならないはずだった。
 おまけにこちらは輪行袋と数泊分の旅装を携えている。そうでなくても初めて乗り換える構内の具合がどうなってるのか、わかりゃしない。八王子駅到着前後の横浜線電車内でのアナウンスは、こんな風に告げた。この電車は定刻より遅れて八王子に到着です、連絡の八高線○○行きはホームでお待ちしています、乗り換えの方はお急ぎください。
 ということでたぶんアルプスの輪行袋とエーデルワイスのフロントバッグなどを体のそばに引き寄せ、自分はいささか緊張していたに違いなかろう。電車は横浜線終着の八王子駅のホームに滑り込み、さて下車して大荷物抱えていそいそと乗り換えの通路に向かえば、そこには愕然とする風景が待っていた。
 八高線のホームは、横浜線のホームからは中央線のそれを挟んで反対側にあり、けっこうな距離を急がねばならない。記憶では、八高線は中央線と横浜線に直交するような具合と思い込んでいたが、いま調べてみたら、三路線とも当たり前だが平行で、横浜線だけ南側に離れており、ここから跨線橋を長く北に向かって小走りしなければならなかったので、そういう風に記憶が形成されていたのだろう。
 私の意識に回顧される情景は、その程度の具合なので、もはや往時から四半世紀も経過した今、この旅を振り返ってつづることにも様々な勘違いや誤りが混入する可能性は高い。場合によっては、それは長いあいだそう思い込んでいた北向きの八高線ホームのように、ひとつの幻想を作り上げてしまう蓋然性も充分にある。
 しかしまあ、それはそれで、そういうものなのかもしれない。過去に辿った道や風景がいつか、現実という輪郭から滲み出して、別のものに変化するとすれば、それは年季を経た酒のようなものかもしれない。とすれば、多少酔ってしまっても仕方はあるまい。これは、旧い旅の記録というより、私の意識内に残存し、あるいは変容した道筋のスケッチに過ぎないのだから。

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 八高線はおおむね予想通りの閑散的未電化ローカル線であった。八王子から北上するにつれてキハ(三五系と思われる)の車内は空いてゆき、やがて関東ローム層の土くれの色が風景を染めるようになっていった。高崎まではかなりの距離があるので、途中で乗り継ぎもしたはずであるが、当時の時刻表は手元にないので、どこでどうしたかわからない。ただ、あれは東飯能のあたりだったのか、私鉄線と接した駅のヤードで見たことのない車両が並んでいたことが記憶に残っている。
 単線で交換のために、ホームの向こう側には畑ぐらいしかない駅で逆方向から来るキハを待つ時間があった。外へ出て一服した。あれはまだ午後二時か三時ぐらいの時刻だっただろう。関東平野も北西の果てになると、こんなに長閑だったのかと、ある部分、呆れた。静岡くんだりなら街を離れれば片田舎になるのはわかり切ったことだけれども、私の脳の中には大学に通い始めた頃に中央線の高架から見た、どこまでもビルや家が続いている風景が強く刷り込まれており、もちろん知識としては関東平野だって秩父の山裾に行けば都会などではないことはわかっていても、実際に見ると、なんだか呆然とするくらいスカスカな風景だったのである。
 初日は青春18きっぷで前橋まで移動してしまう計画も、ビジネスホテルの部屋がとりやすいからということもあるが、当時使っていた「宿泊表」には、八高線沿いの町の旅館などほとんど出ていなかったからでもある。いくらローカル線とはいえ、駅があるんだから、宿があってもおかしくないのであるが、なぜか出ていなかった。どうしてだったのかはわからない。
 高崎から前橋までは高崎線で、それまでのローカルムードも希薄になり、ああやっぱりこのあたりは街だよな、と思っているうちに夕刻となった前橋に着いた。輪行袋を携えて駅前からしばらく歩いて投宿したビジネスホテルの界隈も、すまぬがほとんど覚えていない。どういう夕食をとったかも記憶になく、萩原朔太郎の郷里にはまことに申し訳なかった。ランドナーをどこで組んだかもすっかり忘れている。それは前橋のせいではなく、単に私が都市部にあまりシンパシーを感じないからだろう。
 然るに、都市部でも地図をしげしげと見てしまうところのひとつは鉄道の駅なのである。それも、地方鉄道の終着駅であったりすると、これはぜひ見てみたい、という気にさせられてしまうのだ。

「その2」につづく)
 

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