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青森へのノスタルジア

 自転車の旅で多少なりとも足跡を残した中で、もっとも印象の強かったところのひとつが青森だ。とはいっても、走ったルートは限られている。津軽半島と五能線沿いの日本海ぐらいで、内陸部はほとんど走っていない。
 青森は二度訪れ、その詳細は、拙著『七つの自転車の旅』(平凡社/2008年刊)で一章を割いて記し、この本は韓国語にも翻訳された。最初の来訪は1994年9月、2回目は2008年4月末から5月冒頭にかけてだった。
 その間、14年ぐらいのインターバルがあったわけだけど、最初の旅が相当強烈な印象を残したせいか、再訪するまでのあいだに何度か夢に見た。津軽半島の先端みたいなところが出てくるとか、日本海沿いらしき家並みが現れるとか、二度三度、夢の中で旅をしたように記憶している。
 それほどまでに、青森は、津軽は、自分の中で切ない土地となった。青森へのノスタルジアとは、ふつうに人が故郷や故郷のような場所に感じる郷愁というよりは、自分の中にある何か根源的なものに対する説明のつかない感情でもある。

 1994年9月上旬、輪行袋に入ったランドナーとともに青森に向かった理由のひとつは、東京は国立市での学生時代にたいへんに世話になったご家族が青森市の出身だったということである。どういうところか、見てみたかった。
 静岡から盛岡までは、夜行(一部快速)と各駅停車を乗り継ぐ青春18きっぷの旅で、盛岡から先もそうすることはできたのだが、午前2時頃に静岡を出てきてさすがに盛岡でギブアップし、特急はつかりで終着の青森に向かった。夕刻の陸奥湾は素晴らしく、はつかりの車内はすでにがらがらで、車内に切れ込んでくる夕陽がたまらなかった。
 北緯40度線を越えるあたりから植生が変わったことも印象深かったし、野辺地の駅では、当時まだ運行されていた南部縦貫鉄道のキハを見ることができてほとんど絶句した。

 1回目の青森の旅の最初のハイライトは、旅の2日目、自転車で走り出しては1日めの夕方、十三湖と日本海の間の水路にかかる十三湖大橋のところで見た夕陽だった。
 呆然として眺めるというくらい、日本海に沈み行く陽は独特だった。自転車の旅の醍醐味とはこれだなと思った。
 この日とった宿はその近傍にあり、日本海と十三湖の間にもうひとつある水域、地学的に言えば潟湖にあたる水辺のほとりにあった。二階の洗面所にある窓からは、竜飛崎からけっこうな坂と原生林の傍らを越えてきた「竜泊ライン」の山地も見えた。
 十三湖に至る前に通ってきた、海沿いの小さな集落である磯村も、当時はほとんど、つげ義春の漫画の世界のような雰囲気だった。

 青森の海辺の寂しさや孤愁は、どうにも筆舌に尽くしがたい。それは、鹿島台地や鹿嶋周辺の、近代との相克の哀しみや、首都のある平野部の果ての茫漠さとはまた違う。
 圧倒的に自然のオーラが優勢でありながら、人の住まうところには妙に不思議な文明的自立感があり、それは西津軽と深浦あたりではまた異なるのだが、十三湖のほとりで私が感じたのは、単純に「ここが地の果て」というような感興ではなく、折り重なった時間の果てとでも言うべきニュアンスだった。
 それはもしかたら、十三が、中世まで栄えたという湊の残照を宿しているからかもしれない。空間の果てではなく、時間の果てにおいて、そこは存在しているのかもしれない。

  十三で泊まった夜、風呂もメシも済ませたあと、一本道を散歩したときの妙な親密さが忘れられない。店をやっているような家は、夜八時を過ぎても入口が開いているようで、なんだかそこが街道というよりも、集落全体をひとつの家に見立てたときの回廊のようにも思えたのである。
 今日びの都市なら、夏であっても夜はたいがいの扉や窓が閉ざされている。プライベートな空間は雑踏から隔離されている。それが当たり前だと思われている。
 しかしもしかしたら、中世にあった都市のようなものは、街路を住まいの外部とせずに、別の私的空間とのあいだの親密な中間地帯とみていた可能性だったある。
 日本海と十三湖に挟まれた集落の中で、おかしなことに私はこれまで一度も見たことがない辺境都市にいたような気分だったのかもしれない。

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