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真夜中の自転車 #003/自転車とエロティシズム

 世間一般の道楽系の自転車に対するイメージというのは、健康的だとか、スポーティだとか、エコだとか、まあそんなものだろう。これで喜ぶ人もいるのかもしれないが、サイクリストの自転車依存症的な傾向に対して意識的であろうとするような立場からすると、大して面白くもないし、やや子どもじみてもいる。文学で人間づくりや道徳的感情の育成が図れると考えるような勘違いと、同じようなことだからである。
 健康的でも道徳的でもないことで、自転車カルチャーのイメージからいちばん想定しにくいもののひとつがエコ、もとい、エロティシズムである。

 自転車にエロティシズムが皆無というわけではない。自転車は人間と一体化して機能するものであるから、必然的にそれは擬人化される要素を含んでいる。ただし、自転車はその機能を発揮させるためのフレームや部品自体が自転車の全体構造や外見と一致してしまっているために、エロやジェンダー的な憧れをそうそう簡単に表現することができないのである。
 四輪車は、ボディパネルが構造部品や機能部品とは少し違うところで外皮として成立しているから、ヴォリューム感あるフェンダーやマッシブなヒップ、それらをつなぐ曲面などがけっこうな自由度で表現できる。有名どころのヒストリックなスポーツカーは概して、グラマラスな女性的曲線から成っていることが多い。
 カースタイリングの美学からすれば、それは鼻高々であろうが、自転車的美学からすると、それは分かりやす過ぎる。誰が見たって、それが美しいボディであることが分かるから、解析の必要もない。つまりは謎に欠けるのである。ディーノ246やアルピーヌA110が非の打ちどころのないプロポーションをしているのは、これら名車の最大の美点であろうが、誰にでも分かるという点においては、世俗的でもあるということだ。少なくともそれらは、Avant Garde 前衛ではない。

 よく言われるように、エロティシズムを発展させる基盤は想像力である。実際の事物よりも、脳もしくは意識の中で生成されることのほうがときには重要だったりする。脱線するが、性表現に対して社会的タブーがもっと大きかった時代のほうが、エロはパワーを持っていた。30年前とこんにちを比較すれば、草食系と呼ばれる人は明らかに現在のほうが多いのである。
 四輪車のボディのように直截的な女性的表現は自転車にはほぼ不可能であるがゆえ、逆に言えば表現はもっと比喩的になり、文学的になり、抽象的になり、結果的により洗練された形となる。誰が見ても「これはエロだ」ということであれば、それはむしろポルノグラフィーであり、表現にもよるが、品位はやや落ちざるを得ないであろう。

 もっとも、自転車を構成する素材の中にも微妙なものは存在する。今日の主流であるカーボン系ロードバイクにはほとんど縁はないが、古き良き時代のロードレースや、時代に関係なくシクロツーリスム分野では、サドルの素材として革を愛でる。皮革とエロティシズムの関係性についてここで繰り返す必要はあるまいて。
 さてそのサドルに関しては、フランソワ・トリュフォーの『Les Mistons / あこがれ』(1958)に有名なシーンがある。ややストレートではあるが、憧れの対象だった女性を思う少年たちの行動なので、もってまわったようないやらしさがない。検索してみるといいだろう。
 コンテンポラリーなサドルは往時のものとは比較にならないぐらいエルゴノミクス的に進化しており、現在では要所に穴が開いて向こう側が見えるサドルは珍しくなくなった。しかしそれでエロを感じるかというと、そうではない。なぜなら、それは医学的視点から開発されているからだ。医学が見る身体は、エロの眼差しが見る身体とは別ものであるため、ニュアンスが全然違うのである。いくらスケスケだからといって、レントゲン写真に興奮する人がいないのと同じ道理である。

 ランドナーに秘められたエロティシズムについては、すでにいくつか書いた記憶があるが、ランドナーは絶対的に、ロードバイクやマッチョなイメージの強いMTBよりもエロなのである。ロードバイクやMTBは、走行に最低限必要な機能は取り払っている。旅装を取り付けるところもなければ、電装もない。自転車の美のもっとも基本的な要素である車輪という円環を敷衍するマッドガードもない。
 要するにハダカなのだ。
 然るに、そのまんまのハダカがエロかと言うと、これは違う。
 生物学的にはそういう姿であるのだが、エロというのは文化的文脈でもあり、本能と文化との軋轢から生じるとも言えるので、いきなりすっぽんぽんがエロとは言い切れないのである。

 ランドナーは部品が多い。つまり、自転車の裸体とも言えるフレームに対して、ロードバイクやMTBよりもずっと多く部品が付く。車輪にはマッドガードが、フレームにはキャリアが、キャリアもしくはマッドガードには自転車のおめめとも言えるヘッドランプが、人と自転車の大切な接点であるところには革サドルや革のバーテープが、お尻にも魅力的なテールランプまたはリフレクターが、てな具合に増えてゆき、ついにはフロントバッグやサイドバッグなどの旅装まで身につけてしまう。バッグなどは、コートみたいでもあるね。
 ランドナーフレームは、しばしば、フレームオーダー時にフレームに合わせて製作されるキャリアと一緒に展示される場合がある。そういう場合、キャリアはランジェリーのように見えないこともないのだ。もちろん、それを見ていたからといって、鼻息が荒くなることはないのだが。

 ランドナーのカルチャーでは、ベテランは、オーダーして上がってきたフレームに対し、自分で部品を組み付けるのがむしろふつうである。完組車輪全盛の今からすると信じられない人も多かろうが、伝統的な車輪組みも自分で行える人がそれなりにいた。
 念のため申し添えるが、車輪組みは別にしても、ランドナーを1台組み上げるのには、かなりの時間や努力を要する。マッドガードの加工や装着などは、その白眉であるが、ほかにも電装の装着や配線、ブレーキワイヤーや変速ワイヤーのアウターをどう処理するかなど、神経を使うところがたくさんある。
  タイヤを嵌め入れるときだって、ブランド名の表記をリムのどのあたりに持ってくるかまで考えたりするのである。 
 そういう面倒くさいことをやるのも、ひとつはそれが愉しく、また興奮することだからである。人間と違うのは、ランドナーというのは、裸のフレーム状態に対し、だんだんと部品という衣服を加えてゆく課程のほうがボルテージが高まるということなのである。

(このシリーズの続編は「真夜中の自転車 #004 」です)

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