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きんの砂〜3.預カリマス(6)

 もうすぐ日付が変わろうとする真夜中、慶子は連続して鳴らされる呼び鈴に起こされた。
 パジャマの上にカーディガンだけ羽織り玄関に出ると、寒風の中見知らぬ男性が立っている。手には見覚えのある大きな包みと、菓子折りの入った紙袋を下げていた。
 「夜分遅くにすみません」
 男性は花村と名乗った。夕方、西の茶室でお茶漬けを食べるのに付き合わせてしまった少年、花村一騎の父親だ。
 「これを、お返しに上がりました」
 差し出してきたのは、彼女が少年に押しつけた夫・旗持瀞路の書だ。
 老女の顔がさっと曇ったのがはっきりとみて取れた。やっぱり、この書は息子が盗んだものなのか。疑いが落胆に変わる苦い思いが花村の胸に広がる。ところが旗持瀞路の妻は差し出された書には触れようとせず、なかば怒ったような表情で問い詰めてきた。
 「何故あなたが持ってるんです? 彼はどうしました」
 老女の勢いに戸惑いながらも、花村は非常識な時間にわざわざ訪れた理由を話した。
 花村一騎の家は、都内とはいえ都心から少し外れたところにあった。家の初日に父親の車で30分近くかかる場所まで、彼は毎日自転車で通って来ていたのだ。
 高校受験を控えた頃からあまり話さなくなった息子の変化を、父親は「思春期」のせいだと考えていた。だから最近特に帰りが遅くなっても、特に問題とは考えていなかった。
 「今日もまた遅いと思っていたのですが」
 息子のいない夕食が終わろうとしていた時、都内の警察から電話がかかってきた。
 街灯のない河川敷で倒れている自転車と男子高校生がいた。車両通行止めの河川敷だったが、人の少ない時間帯には自転車に乗ったまま通る学生が多く問題になっていた場所だ。一騎もまた、帰りが遅くなったため近道であるその河川敷を自転車に乗ったまま走ったのだ。
 「見つけてくれたのは通行人で、警察の検証ではどうやら自分でハンドル操作を誤り河原側の藪の中に落っこちたようです」
 幸いにも命に関わるような怪我はしていないが、足を複雑骨折し脳震盪を起こしていたと、話を聞いた慶子は大事には至らなかったことに胸を撫で下ろした。
 「今は手術中で、付き添いは妻に任せて荷物を引き取りに警察に行きました」
 そこで少年の荷物の中にあった、豪華な風呂敷に包まれた書画集を見つけたのだ。それをみた時の花村の驚きはどれほどだったろう。だが、自分の息子が盗みを働いたと勘繰るとはなんと悲しいことか。
 「それであなたは疑ったのですね。彼が手術を終え目を覚ますのも待たずに」
 「は、旗持さんは遠くに行かれると聞いていたので」
 狼狽し、父親の声は掠れた。早く謝ってしまえば、警察に通報されないかも知れないと微かな期待もあった。息子はまだ16歳だし、何より事件として表に出ては仕事も家も失いかねない。
 「あなたは、自分の息子が信じられないのですね」
 悲しげな声に、花村はハッとして下を向いていた顔を上げる。その表情、仕草はあの少年そのものだ。
 自分のくだらない満足心を満たすことに付き合わせてしまったために、一騎は近道をしたのだ。命に別状のない怪我とはいえ、手術という行為自体が危険な医療行為であると慶子は知っている。複雑骨折ならばおそらく全身麻酔による手術だろう。その死亡例は10万例で1〜2例(約15%)。少ないようだが、決して無いともいえないのだ。
 「それは私が彼に押し付けたものです」
 夕方の西の茶室での出来事を、慶子は花村に話して聞かせた。
 「その書画集には兄弟ともいえる片割れがあるのです」
 毎日足繁く通い一騎が見つめていた、ショーケースの中の書画集だ。
 「瀞路は一つを自分のために、もう一つを家族のために作成しました」
 家を丸ごと資料館として残すにあたり、慶子は瀞路が自分のために作製した「風雪抄」を残すことにした。一騎に押しつけたのは晩年、初孫を迎えた瀞路が家族のために製作した「天緑てんろく抄」だ。それにはまるで天に戯れ地に寝転がるが如く無邪気で天真爛漫な文字が連なっている。慶子は最初、夫の願い通りに幼い孫が少しずつ大きくなる過程で共に眺めようと思っていた。だが病床に伏せる彼の世話をするうちに、常に手元に夫の分身のような書画集を置いておくことが嫌になったのだ。
 死してなお私を離さないつもりなの?
 だから書画集を預け、自分や家族が見たい時だけ見れるようにしようと思った。だが頼みの綱だった古書店の若い店主に言われて気づいたのだ。
 本当に必要としている人に預けよう。
 「それが息子なのですか」
 毎日帰りが遅いと思ってはいたが、まさかこの屋敷に立ち寄っているとは思いもしなかった。
 「彼は悩んでいるわ。自分の向かう道が正しいのかどうか。それを教えてあげることは誰もできないし、ましてや本人だって確認のしようがないのよ。だって通り過ぎて初めてわかるんだもの。でもね、勇気を与えてあげることはできるでしょ」
 少しでも前に進めるように、足元を照らすくらいは。
 「私には進路のことなんて何も」
 悔しかった。同じ屋根の下に生活し毎日顔を合わせている家族なのに、彼のことが何もわからない。
 「私が無理に聞き出したのよ。彼は優しくていい子だわ」
 父親として無視された形の花村の複雑な胸中が顔に表れたのだろう。
 「いつも瀞路の書の前で長く考え込んでいた。死んだ人間の残したものが生きる勇気の糧になるのなら、それは必要なものでしょ」
 「天緑抄」は「風雪抄」と趣が違うかもしれないが、同じように彼の役に立つに違いない。
 「それは返してあげてくださいな。そしてあなたはもっと、言葉をかけてやることね。彼は繊細だわ」
 せっかくだからと手にしていた菓子を慶子に押し付け、花村は帰って行った。
 よく似た親子だ。
 俯く仕草、話し方、後ろ姿。
 話せばきっと、お互いのことがわかるだろう。

※※※※※

 平日の図書館は意外にも訪れる人が多かった。学生も冬休みが終わりてっきり利用する人はいないと思っていたのだが、逆にその分昼間に時間のある主婦や高齢者、自分のような社会人にはちょうどいいらいいらしい。
 亞伽砂はずらりと並んだ図書の背を目で追いその一つに手をかける。少し高い場所にあるため爪先立ちになり、引き出した拍子に隣の本も倒れるように落ちてきた。
 「ひゃっ」
 思わず声が漏れる。一冊は何とか書架と体の間で挟むことはできたが、もう一冊が床に落ちてしまった。来館者が多いとはいえ皆声や物音を立てずに閲覧したり移動したりしているのだ。無音ではないものの厳かにも感じる空気の中で自分の声や落ちた本の音が一層大きく思えた。
 「大丈夫かい」
 急いで拾おうとしたところ、横から伸びてきた手に本は拾われた。
 「珍しいね。今日は休み?」
 床に落ちた本を拾って得馬が差し出す。
 彼とこうして顔を合わせるのは去年の店の掃除以来だ。
 「有給を取ったの。銀行で手続きしたり、貸金庫を見たりしなきゃならなかったから」
 受け取ったものの目的の本ではないため、また爪先立ちで書架に戻そうとするのを見て、「貸して」とまたしても得馬が横から手を出して本を取り上げる。難なく最上段に戻したふと見ると申し訳なさそうにもう一つ、傍で本を差し出している。
 「得馬さんはお仕事?」
 お礼を言ってから彼の片手に目を移す。重そうな大きな黒いバッグを持っている。
 「そう。担当者が調子悪くて、代打でね。図書館も大事なお得意様だよ」
 キンノコ堂で見つけた亞伽砂の祖父の遺言のその後については、公宣から連絡を受けていた。彼女の呼びかけで開封手続きはすぐに行われ、集まった親族のもとで中身が公開された。結果としては、彼女が店を継ぐことに変わりはなく、今際の際の老人の呟きでないことに叔父は落胆していたというが、その他は法律に則り処理するようにと指示されていたので特に諍いが起こることもななかったらしい。
 年末年始の休みが始まる少し前から、亞伽砂は休暇を取得して店主としての手続きを進めてきた。
 「祖父が預けた本の確認もだけど、これも見ようと思って」
 そういうとバッグから小さなビニール袋を取り出した。中には細長い新聞の切り抜きが入っている。去年、書を預かって欲しいと訪ねてきた故・旗持瀞路の妻が持っていたものだ。夫の病床介護の折に見た新聞にあったという小さな広告は、店名と電話番号の他には一言「預カリマス」とだけしか書いていない。店の記録から過去に数回、新聞社に広告代として支払った記録があったがこの広告の掲載料だと思われた。
 「大したことないんだけど、実際に載ってるのを見たくて」
 広告の裏には旗持夫人の手で掲載日と掲載されていた新聞の名前がメモされていた。2、3年前のものだが、新聞は全国紙だから電子資料としてなら閲覧が可能だと図書館で言われたのだ。
 こんなに小さくて地味な広告で客が来るとは思わないが、それなりの効果があったということだろうか。
 「埋もれてしまいそうだけど」
 得馬も不思議そうに首を傾げると、「実際埋もれてた」と笑い続ける。
 「あとは、時間が余ったから館内を見てたの」
 書店にもあまり立ち寄ることのない亞伽砂にとって、図書館は近くて遠い公共施設だ。最後に通ったのは高校生で、しかも目的は本を借りるためではなく受験勉強だった。
 「何かいいものあったのかな」
 彼女が背にしているのはファンタジー小説の単行本と、それに関連した書籍が並ぶ棚だ。
 「昔流行った本を思い出して。中学生くらいの時」
 手にしていたのは、外国文学の日本語訳のファンタジー小説だった。ヤングアダルト向けだが、大人も夢中になる程の人気で映画化にもなった。
 「映画は見たんだけど、本は読んだことがなかったから」
 「僕も夢中で読んだよ。でも、忘れちゃったな」
 そう言いながら荷物を置くと、亞伽砂から本を借りた。懐かしげにページを捲る表情が、どこか弟のそれに重なる。
 「次借りるから、早めに読んで」と、また亞伽砂に返す。
 「それ、ノルマ?」
 「もちろん。本屋の店主たるもの本を読まなくて何をする。ってね」
 床に置いた荷物を手にする。
 「じゃあ、店を開ける時には連絡を頼むよ」
 腕時計を確認して去っていく背中を亞伽砂は見送った。得馬は頼もしい協力者だが厳しい書店員でもあるようだ。
 この休暇中、亞伽砂は店の帳簿を細かく調べていた。預けられていた本は店以外にも保管場所があること、定期的に本を見にくる客(それを「あらため」と祖父は記していた)がいることなどがわかって来た。祖父のパソコンの中に見つけたスケジュールでは近く検めの客が来店することになっている。日時が差し迫っており変更はできないと思うので受け入れるつもりだが、今後のことについてどう説明したらいいものかと考えると気が重くなる。

 キンノコ堂という変わった古本屋の店主が孫に代わり、店を再開したらしいという噂を聞きつけた客がしばしば訪れるようになった。 
 老店主はホームページなどは作成していなかったが、古書組合には登録しており、亞伽砂が組合店の登録変更をした後にトピックスとして情報ページに掲載された。
 店の情報ページへは店主の交代と開店日・開店時間が変更になった旨を載せた。元々預かり業についての言及がないので、店に預かりを依頼しにきた客は慶子のように小さい広告を見るか、人伝に聞いてきたのだろうと思われる。
 基本的には開店日は当初の予定通り各々の本業である勤務する会社が休みである土日としているが、毎週ではない。主に返還される本を元の持ち主が取りに来たり、本の検めに来店する客の都合に合わせる。とはいえ返還する本や品物は多く、店を開いていない日もカーテンを閉めて郵送の準備をしたり調べたりすることが多かった。
 「店長、宮澤さんがいらっしゃいました」
 2階の窓を開け、テーブルのカバーを整える亞伽砂のスマホに店先で座る公宣から連絡が入った。
 全開にしていた窓を少しだけ開けておくようにし、階下に降りる階段の前でくるりと振り返り見直す。
 整えられた椅子とテーブルクロス。テーブルの上には花が飾られ、傍のワゴンにはお茶の道具と茶菓子が用意されている。
 訪ねてきた客は、子供用の絵本を何冊か預けていた。
 仕掛け絵本や大きな絵と短い英語で書かれた外国の絵本、現在は絶版になっている日本の絵本もある。
 去年まで改めは女性1人だったが、今年は3人で来店すると告げられている。
 「いらっしゃいませ」
 得馬に案内されて半回転の階段を上がってきた客に声をかける。
 「階段、綺麗にしたのね」
 挨拶の返事よりも先に先頭の女性は笑った。確かに以前の階段は最後の方で剥き出しになった鉄の手すり部分の色が落ち、錆こそないがあまり見栄えのいいものではなかった。年明けからの活動で、得馬と公宣が踏み板と共に綺麗に塗り直してくれたのだ。
 「無理をいってすみません」
 宮澤と連絡のあった女性は改めて亞伽砂に挨拶をした。彼女はおそらく祖父が預かりを始めた頃からの古い常連客で、預かり業を辞めると説明した時もひどく残念がった。この店で一年に一回大事な本達と過ごす時間がとても楽しいと話し、店から返還される最後の本になるまで持っていてほしいと懇願してきた。
 「置き場がないとか、持っていたくないとかではないんです。本と向き合うための場所はもとより、時間を提供してくれる。そんな贅沢をこの店は実現させてくれるんです」
 そう語る彼女の熱意に負け、亞伽砂は宮澤の願いを聞き入れた。彼女から預かっている本が最後の返還本となるまで、預かり続けると約束したのだ。
 「時間を得るには何かを犠牲にしなきゃならないから」
 例えば家族との会話や、料理をする時間、頭の中を空っぽにする時間。それは得ようと思えば簡単にできることだが、人間は常に何かを詰め込んでおくのが好きな生き物だから、事前に決めておかないと「空白の時間」は作れない。
 「本を読むためにスケジュールを組み、時間をかけてここまでくる。それはすごい贅沢な時間の使い方だよ」
 宮澤とのやりとりを話した時、得馬はそういって納得していた。時間は目に見えないものだし、何かを切り詰めようとすれば簡単に余分な時間など作れそうなのに、確かにそうしない限りいつも「何かをする」事に追われている気がする。
 「では、心ゆくまで」
 お辞儀をして、亞伽砂は宮澤とその夫、まだ幼い娘を置いて階下に下がった。
 もしかしてキンノコ堂での検めが最後になるかもしれない。そう思ったら、自分がこれまで感じてきた本と過ごす贅沢な時間を家族にも知ってもらいたいと、彼女は話していた。
 あの絵本達がこの店から出て行くのが今年中なのか、2年先なのかは亞伽砂でも予測がつかなかった。
 「あの、そうではないんです」
 店主席の裏までくると、何やら余裕のない公宣の声が聞こえてきた。亞伽砂が宮澤の本の検めの支度を整えている間、弟に店主役を任せていたのだが。
 「どうしたの」
 店側に出ようかどうか迷っている得馬に訪ねてみる。
 「どうしても売って欲しい本がある客がいるみたいなんだけど」
 眉間に皺を寄せて成り行きを見守っているようだ。
 「店側で待機しててくれる」
 今日が開店日であることは告知されており、幸か不幸か他の客もいる。壁の向こう側の声では結構な剣幕で公宣に突っかかっていても、それ以上の騒ぎは起こさないとは思うのだが。
 台所側のドアから出ていく得馬の背を見送り、亞伽砂も店主席に出た。
 「どうしたんですか」
 公宣の隣に腰を下ろすと、待っていたと言いたげに若い男が亞伽砂を見た。
 「この本が欲しいらしくて」
 カウンターの上には同じ本が2冊並べれられいた。この本は店主側の壁に作り付けられた書架の一番上にあった本だ。店内には高所の本の確認用に脚立が用意されていて、それを使い客が取り出したの。本は裁判所の判例集で、片方には祖父の手製の帯が付けられている。古書組合のホームページは本の検索も出来るようになっていて、自分の欲しい本がどの古本屋にあるのかわかるようになっている。彼もその検索を使い本を求めてきたのだろうか。
 「俺が欲しいのは左側の本だ」
 青年が指差した帯の付いた本は片方の本よりも使い込まれ、内側に元の持ち主によるメモや注釈が書き込まれていた。おそらく古書組合のホームページで検索して出てくるのは右側の方、比較的背表紙も綺麗で古書としては状態も良い方だ。
 亞伽砂もこちら側の書物であれば問題なく売るところだが。
 「失礼ですがお客さまは、法律を勉強なさっておいでの方ですか」
 古いノートをカウンターの下から引っ張り出し、亞伽砂は訊いた。
 「来年司法試験を受けます」
 「そうですか。ではお手数ですがこちらにお名前と住所、連絡先をご記入願います」
 男はもちろん、そっと店に入り様子を見守っている得馬も怪訝な顔をした。
 「こちらのお望みのお客様がいらっしゃいましたら、元の持ち主様に連絡を入れる約束になっておりますので」
 「売るためにあるんじゃないのか」
 男の顔がみるみる不機嫌になった。先ほどまで公宣に販売を拒否され、やっと話がわかる者が来たと思ったらまた同じことを言われるのだ。怒りたくもなるだろう。だが、男は帯の付いている方の判例集が欲しかったのだ。
 「おそれながらこの本は、買う方を選びますので。もう一方の方でしたらお値引きも可能ですが」
 本が、というより本を預けた持ち主がというべきだろう。男は納得いかないという顔でしばらく亞伽砂と本を見比べていたが、やがて帯の付いていない方の本を買うと「こんな店あるか」と捨て台詞を吐いて出ていった。
 「ふう」
 亞伽砂は息を吐き出し、伸ばしていた背中から力を抜いた。
 「店主らしいね」
 公宣から帯の付いた本を受け取り、得馬が掛けられたままの梯子を使って本を元の位置に戻した。この判例集を預けたのは元裁判官だ。かなり前に出版された本らしいが、こうして求める人がいるということは珍しい裁判の記録でも載っているのだろう。
 男が公宣に向かって声を荒げたときに見ていた数人の客はまた自分の世界に戻り、店は平穏に戻って行った。

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