百鬼夜行渋谷アタック大作戦で芸術について考えたこと

昨年に引き続き2回目の参加だった。このよのはるも、渋谷の街も、もちろん私自身も、1年間で変わったことはたくさんある。それでもまた百鬼夜行渋谷アタック大作戦が決行されて、参加することができて、嬉しかった。だいたいここにいるのはいつも奇跡だ。

今回私は自分が主宰している企画の名前で参加した。別に自分の名前でもよかったが、芸術幼稚園に来てくれている人たちにも、このイベントを目撃して欲しかったのだ。けれどもその策略は失敗した。1人だけ学校の友達が来てくれたが、その人は企画繋がりというよりも個人繋がりの友達だった。つまり私は私だけで芸術幼稚園を背負って参加することになった。自分自身について否応なしに考えさせられる羽目になった。

前回のこのイベントを、私は本当によく観察していた。1年前に書いた文章を改めて読んで、我ながら感心した。文章の良し悪しはともかくとして、無垢に素直に、場と人間を見ていた。しかし今回は、芸術幼稚園という企画と自分のスタンスに関する思考で脳内が埋め尽くされていた。練り歩きもライブも確かに現場にはいたけれど、魂は遥か彼方、別のところで別のものを見ていたように思う。

イベントの直前に、芸術幼稚園の運営について、かなり尽力してくれていた友人に叱られていた。その理由は積み重なった失敗、私の態度だった。簡潔に言えば、私は他人に対する配慮が足りておらず、特に興味のある現象の観察にのめり込むと周りがどうでもよくなり、総じて自分勝手であるらしい。その指摘が重く胸に響き続けていた。百鬼夜行の当日も、どう関われば邪魔にならないのか等、ネガティブなことばかり考えていた。遠心的な場であることは十分にわかっていたのに、部屋の端にいたかった。

芸術幼稚園では芸術家を学校に呼ぶということをしている。教育と芸術を繋ぐとかいうと、多くの大人が称賛してくれるけれど、働きかける側の実感としては、なかなか難しい試みでもある。

日本には、芸術家イコール変人、というようなイメージがある。社会生活に馴染めないドロップアウトしてしまった人が芸術をやると思っている人がたくさんいる。また、学校で絵を描いていることは遊びに分類される。かといって、芸術の世界は、誰もが真剣に取り組んでプロを目指す必要がある訳でもなくて、絵を描くことは確かに遊びでもあるのだ。どうすれば芸術の価値が広く一般に認識されて、現実的にお金なども回ってくるようになるのか、知識も経験も足りない頭で延々と考えて、勝手に絶望したりしている。百鬼夜行のような企画も、このよのはるの路上も、本当は広く一般から応援されるべきだと思うのだが、現実にはそうならない。むしろ、東京オリンピックに向けて攻撃的になっている警察たちを筆頭に、排除されようとしている。

私は、感受性にずるずると誘惑されやすい一方で、簡単に強い言葉の虜になってしまう。そういう自覚がある。そうならないように気を付けるあまり、全てをシャットアウトする、あるいは過度に乱雑にふるまうして、世界を受け入れないときがある。その生き抜く術が自分を縛りつけているときがある。さらに、能動的であることこそが正義だと思い込んでいる。ある種のコンプレックスだと思う。自ら考え行動する(ように見える)人を好み、他人に任せている(ように見える)人を嫌う。自由を求める熱だけが、この膠着をゆるめているのかもしれないが、定かではない。拠り所が自分の中にないのだろう。

芸術によって世の中が良くなることは誰の目にも見えることではない。穏やかに、日常の隙間に入り込んだのち、個々の精神に届くものだからだ。

私は、自分には何も創造できないし、たとえば世界を変える力なんて持てないと思う。でも、百鬼夜行のような、このよのはるのような、音楽、世界観、芸術、世界を変える力を持てるものたちを、守りたいと思う。リスペクトすること、愛と葛藤をかかえ続けることでもって、私は貢献したい。何も持たない人間の、ほとんど唯一の執念かもしれない。

 「いろいろな事情を抱え今日みな集まっている」と、主宰のリサさんが書いていたが、本当にそう思う。百鬼夜行渋谷アタック大作戦は、芸術のためでも社会のためでも渋谷の街のためでもなくて、参加者と鑑賞者、そして私のために続いてほしいと思う。来夏はオリンピックで、東京がどうなっているのかよくわからないけれども、また渋谷で、魔法が解ける瞬間を目撃したい。

ps
結局のところ何を言いたいのか分からないテキストになっていますが、わからないなりに角度があり、視座が生まれているため、残しておきます。

これからもよろしくお願いします。

きっと、願わくば、健やかに。素敵な出会いに恵まれまように。

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