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持病の話(その1)。

 私が今、持病として長らく付き合っているものに、

・潰瘍性大腸炎(UC)
・深部静脈血栓症(DVT)
・下肢静脈瘤

があります。

潰瘍性大腸炎は、お亡くなりになった安倍元首相が持病としていた病気です。
日本での患者数は、千人に一人くらいです。(当時の話。今は1.5倍くらいに増えているようです。)
深部静脈血栓症は、太い静脈の中で血栓ができるのですが、この血栓がはがれて肺動脈に運ばれて行って詰まると、肺血栓塞栓症(PTE)、いわゆるエコノミークラス症候群になります(私も発覚時は肺に飛んでいました)

まずは、潰瘍性大腸炎について、話してみたいと思います。

(1)潰瘍性大腸炎との出会い

怒涛の腹痛と下血

 この病気に初めて出会ったのは、42歳の時です。所謂、“厄年”。身体にガタが出てきてもおかしくない歳ではありました。
私は建設会社に務めているのですが、とある土木現場で、現場の対応が悪く(原因は複雑)、直接現場を担当する立場でなかった私も現場管理をサポートすることになりました。その工事が遅れに遅れ、発注者や近隣との折衝の担当であった私は、クレームの嵐と謝罪の日々・・・。耐えに耐え、なんとか完成にこぎつけ、「やれやれ、酷い目にあったもんだ」と一息ついたのですが、精神的そして身体へのダメージは想像以上だったようで、半年ほど経った時に急に異変が起きました。
それまでも、精神的肉体的にキツイ場面は何度かありましたが、もともとマラソンを嗜む私にとって、しんどい思いをしながらもゴールした時の達成感は何にもたとえようがなく、建設現場であっても工事間際がどんなに忙しくても“竣工”した瞬間の達成感で心身がリセットできるもんだと思ってやってきたのですが、この時ばかりは違っていたのです。
まぁ、無理がきかない歳になっていたのかもしれませんが。
 11月のある日、朝から腹の調子が悪く、何とか朝食は食べて出社したものの、10時ころから腹痛が酷くなり、下痢状の便がちょっと出てトイレを出たら数分も経たないうちに又腹痛。何度か繰り返しているうちに、ティッシュが赤く滲むように。「切れ痔かな?」・・・もともと便秘がちな私は、それまでにも時々、硬くなった便のせいで肛門部の出血は経験していたのです。
しかし、その後、出血は酷くなるいっぽうで、さすがに「これはヤバい」とその日は早退し、翌朝、自宅近くの藤田胃腸科病院へ。

入院と大腸内視鏡

 診察の結果、「指定難病97;潰瘍性大腸炎の疑いあり」とのこと。大腸内視鏡の結果、中等症(左側大腸炎型)で確定。とりあえず、2週間ほど入院することになりました。
入院するのは初めての経験。4人部屋で、入った時はそれほど混んでなくて、窓側のベッドに。
なぜか、夜の就寝時間になると首が痛くなって寝付けない(後で2回目の入院をした時もそうでした)。看護師さんに話したら、痛み止めを出してもらえることになり、眠れるようになりました。
まずは、プレドネマ注腸と点滴の毎日。CRP値がある程度下がってきたら、大腸内視鏡で確認することになります。
そう、この大腸内視鏡が、モヤモヤの根源なんです。
僕の場合、なんでも大腸が通常よりも長めで、かつフニャフニャしているらしく、大腸カメラが思うように奥に進まず、大腸カメラの操作には高度のテクニックと体力(!?)が必要なのだそうです。(※院長先生は上手でした(^^) )
そもそも、大腸内部を奇麗にするのが、これまた大変!
水下剤(ニフレックやマグコロールP、モビプレップなど)を飲んだだけではなかなか腸内洗浄できず、検査時間が迫る中、最後の手段は看護師さんによる追加の強制浣腸を数回強行してもらって、ギリギリセーフ💦。
今はここまで酷くはないものの(色々と工夫するようになりました)、検査前にはいつも憂鬱になります。
さて、退院後は最初は毎週、それから隔週、月いちの通院に。
「ペンタサ」という非ステロイド性抗炎症薬と整腸剤(ラックビー)を服用し、調子悪いときには就寝前に「ペンタサ注腸」を行う日々が始まりました。
1年ほど経つと、腹痛や便の状態も改善してきて、大腸内視鏡検査の結果、「寛解」と診断されて、ペンタサとラックビーのみの服用で済むようになりました。

転勤と再燃

 寛解になってから1年後、会社から東京勤務の辞令が下り、2008年に初めて東京に引っ越すことに。さて、新天地の東京でのかかりつけ医を探さなくてはならない。色々と調べた結果、引っ越し先からの通院もしやすい、「社会保険中央病院(現;東京山手メディカルセンター)」に決定!
藤田院長に作成してもらった紹介状を抱えて手続きを進めたところ、担当医は吉村先生と相成りました。 
新しい職場での緊張感からくるストレスのせいか、下痢が続き、下血も見られたので診察時に話したところ、ペンタサ注腸を追加したりしたら数か月で落ち着き、ホッ。
その後、蜂窩織炎に罹ったり、下肢静脈瘤に罹ったり、飲み会で前歯を折って唇縫ったりと色々と痛い目にあいましたが、これらは後でお話しします(前歯と唇の件は「九死に一生の巻」参照)。
 東京勤務になってからも、大阪単身赴任とか、東日本大震災後の復興工事で東北に単身赴任とか経験しましたが、2015年に再び東京勤務となり、会社の都合でとある現場の担当になった時のこと。久しぶりに現場の責任者になったことと、不慣れな業務内容と、発注者の複雑な管理体制からの忙殺で、慢性的な寝不足と高ストレスがボディーブローになって、大腸が悲鳴を上げてしまいました。下肢の浮腫み、痒み(※また次の機会に説明します)に加え、下血が頻繁になってギブアップ 再燃です。
会社の上司に状況説明して、2016年6月15日に約10年半ぶりに入院することに。
全腸型の重症。ステロイドの点滴の他に、「顆粒球除去療法(GCAP) 」も体験。毎回2時間くらい、太い注射針を刺されたまま(だんだん血管が細くなってきて刺せそうな箇所を探すのがまた大変!)、ベッドで安静に。人工透析のような感じ。ちょっと憂鬱な治療法でしたが、効果はあったようです。
入院直後は、また首痛に悩まされ、痛み止めはもらったものの、夜な夜な西新宿の高層ビル群の夜景を眺めながら過ごす毎日がしばらく続きました。
 入院中に下肢の浮腫みと痒みを担当医に伝えたら、思うところがあったらしく、すぐ下肢のエコー検査をしてくれて、その後なんとPET-CT検査まで!
特殊な液体(FDGといいます)を静注(生暖かかった)し、血管の状態を詳しく調べるものです。
検査の結果、すぐにハートモニターを装着させられ、車いすで病室へ運ばれました。
担当医からエコー検査結果を見せてもらったら、左右の下肢静脈がまっ赤っ赤に太く塗られていました。この赤く塗られたところに血栓ができているとのこと。そして、PET-CT検査血栓が広がっており、一部は肺動脈に飛んでいることが判明!
いわゆる、「深部静脈血栓症」並びに「肺血栓塞栓症(エコノミークラス症候群とも言われる)」です。
危機が去るまで、「ハートモニター」を装着したまま24時間監視体制となったのでした。
詳しくは「九死に一生の巻」参照!)
ハートモニターを外してからは、血液をサラサラにする「ワーファリン」の服用が延々と続くようになりました。(※詳しくは次回に説明します
 1か月経過すると、腹痛も収まり便の状態も良くなってきたのですが、どうしても最後に鮮血がちょっと滲む状態から進展なし。それでも大腸内視鏡検査を行うと大腸の状態は良くなっているので、退院することになりました。入院中はプレドニン(副腎皮質ステロイド系)等を点滴や服用していましたが、退院直前に、新たに認可された生物学的製剤の「ヒュミラ」に変更。自宅で皮下に自己注射できるようになりました(月二回)。飲み薬はペンタサ顆粒とビオスリー、ワーファリン錠(途中からイグザレルト錠に変更)。1か月半の入院生活でした。 

今度は手術!

 退院から1か月経っても下血状態に変化が見られないため「大腸肛門科」でも診てもらうことになりました。
まずはセフゾン(抗生物質)とロキソプロフェンNa(消炎・鎮痛剤)で様子見。
その後も好転せず、「痔瘻」と判定。
頻繁な下痢で肛門がダメージを受け、肛門周囲に膿がたまり、 膿のトンネル(穴)ができてしまったようです。そして、ついに「手術の日取りを決めましょう!」。
潰瘍性大腸炎でも手術は避けられたのに・・・、生れてはじめての手術となりました。
10月6日に手術が決まり、5日に再入院。
血液サラサラの薬とか色々服用しているので、麻酔は局所麻酔のみ(_)!(普通は下半身麻酔なのだそうだが)・・・痛かったぁ!!
手術後、痛みは数日でなくなりましたが、縫合箇所からの滲出液がしばらく引かず、ネリザ軟膏やポラザG軟膏を使いながら、傷口が完全に癒えるまで、5か月かかりました。

再びの寛解と予防

 痔瘻が完治したことで正真正銘の寛解に。それから、又ぶり返すことのないように、より健康体を目指して、妻の勧めで「分子栄養外来」の医師に診てもらうことに。
実は入院途中から、妻が病院食の献立をチェックして、パン食は避けるようにしていました。日曜日の朝食はパン食となっていたので、看護師さんには「パンは苦手なので変えてもらえませんか?」お願いし、ご飯に変えてもらっていたのです。理由は、グルテンをなるべく口にしないためです。
退院してからは、乳製品も控えるようになりました(※カゼインが含まれているから)。
グルテンフリー、カゼインフリーな生活は、現在も続いています。おかげさまで、大腸の調子はいたって良好です。(※グルテンや分子栄養学の話はまたの機会に!


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