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宇野常寛『宮藤官九郎と日本の「長すぎた思春期」』

秋クールでも注目度抜群のTBSドラマ、宮藤官九郎脚本の『監獄のお姫さま』が今週10月17日(火)にスタートしました。そこで、今回は本誌編集長・宇野常寛による宮藤官九郎論をお届けします。2016年のテレビドラマ『ゆとりですがなにか』で描いたものと描かなかったものを通じて、東京五輪がテーマになるという次作への期待と課題を語ります。(初出:テレビの見る夢 ― 大テレビドラマ博覧会 図録)

 テレビドラマ作家としての宮藤官九郎は、自身より一世代下の男性に仮託するかたちで青春とその終わりを反復して描いてきた作家である。とりあえず今回はここから出発しよう。
 宮藤は「モノはあっても物語のない」消費社会に育った少年たち――『池袋ウエストゲートパーク』は九〇年代の渋谷に間に合わなかったチーマー(都市の少年たち)の、『木更津キャッツアイ』は後に「マイルドヤンキー」と呼ばれるジモト志向のブルーカラーの現代形の――それぞれ思春期の終わりを描いていたはずだった。そして『マンハッタンラブストーリー』はそんな思春期を通過した(してしまった)三十代たちの物語だった。恋愛という自分が主役の物語しか語り得ない三十代の「現実」が『マンハッタンラブストーリー』なら、彼ら「寄る辺なき個」の軟着陸先として提示された「家族(ゴッコ)」あるいは「(拡大)家族」のビジョンが『タイガー&ドラゴン』であり『吾輩は主婦である』であり『流星の絆』だったはずだ。これらの正統なアップデート版が『11人もいる!』であり、そして家族(ゴッコ)/(拡大)家族には回収しきれないものの受け皿としての『木更津キャッツアイ』的なホモソーシャルの再検討が『うぬぼれ刑事』だったように思う。
 同世代の同性たちからなる若者のホモソーシャルが加齢とともにゆるやかに解体し、やがて(擬似)家族的なものに回収されていく。しかし宮藤の想像力は教科書的な成熟と喪失の物語を選ぶことはなく、やがて男の魂は新しい、大人のホモソーシャルに回収されていったのだ。

 宮藤のドラマからいつも感じるのは、部活動的なホモソーシャルだけが人間を、特に男性を支えうるという確信と、その一方でこうしたホモソーシャルの脆弱さに対する悲しみだ。この確信と悲しみの往復運動が、宮藤作品における長瀬智也の演じるキャラクターの変遷をかたちづくり、あるいは『木更津キャッツアイ』シリーズでクドカンが描いてきた儚いユートピアのビジョンに結実していった。
 この視点から『木更津キャッツアイ』について振り返るのならば、人間がこうした部活動的なホモソーシャル、同世代の、同性からなる非家族的な友愛の、「仲間」的なコミュニティに支えられたまま(「まっとうな近代人」の感覚からすればモラトリアムを継続したまま)歳をとって死んでいくという人生観を提示し、しかもそれを幸福なものとして描き出したところが衝撃的だったと言える。そして『タイガー&ドラゴン』以降の作品は、宮藤自身がこの『木更津キャッツアイ』で提示したものを自己批評的に展開していったものに他ならない。「ジモト」のホモソーシャルから、現代的な成熟の器としての(拡大)家族へ――このビジョンの集大成にしてメジャーへの応用が『あまちゃん』だったのだろうと思う。

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