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ゲームから物語へ(1) | 井上明人

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。多くの人にとっては「ゲーム」は終わりを迎えるものです。しかし、羽生善治氏や梅原大吾氏などのゲームを生業とするプロプレイヤーは異なる感覚を持っているようです。「ゲーム/物語」の区分から、井上さんが概念の整理を試みます。

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』

■第20回:ゲームから物語へ(1)

3-5-6.ゲームであり、物語である

*続くもの、繰り返すもの

 たとえば、『スーパーマリオブラザーズ』を遊ぶとき、我々はゲーム機を立ち上げて一通り遊んだらゲーム機の電源を切る。そうすれば、ゲームの世界はそこで一端終わってしまう。多くのアナログゲームの経験も似たようなものだ。親戚の子供と一緒に正月に『ババ抜き』を遊ぶとき、数ゲームほど遊んだら『ババ抜き』というゲームはそれでいったんおしまいだ。半年後まで親戚の子どもが、そのババ抜きの結果について考え続け、その続きを挑んでくるということは、ほとんどないといっていいだろう。このようなとき、ゲームとは「終わり」を明確に持つものだ。
 しかし、そうではないケースもある。「ゲーム」が日常のなかに埋め込んで生きている人々もいる。プロ棋士、プロボクサー、プロゲーマーなどと呼ばれる人々がそれにあたる。ゲームプレイというのは彼/彼女らの日常のなかにがっちりと組み込まれ、それは一回ごとのゲームを終えても、ある意味では続いているものだ。
 たとえば、羽生善治はゲームというものについて一般人とは異なる視点をもっている。羽生本人のテクストから引用しよう[1]。

 私はよく、タイトル戦などの重要な対局で、相手の得意な戦型で戦うことがあります。それはその人の得意な戦型を打ち破って優位に立とうということよりも、どんなに研究しても、最後は実戦でその戦型のスペシャリストの人と対戦しないことには、その戦型が本当の意味で自分の身につかないと思っているからなのです。
 基本的な部分は、棋譜を見たり本を読んだり、練習将棋をすることである程度は把握できますが、そこからもう一歩前進しようと思ったら、その形のスペシャリストと実戦で実際に指してみるのが最も効果的だと思います。
 相手の土俵で戦うことになるわけですから、確かにそのときの勝負の面においては損をする部分もありますが、長い目で見ればそれほど損ではないのではないかと私は思っています。
 仮にその一局は負けたとしても、その形を着実にマスターできたならば、自分にとってかなり大きなプラスになります。だから長期的な視野に立てば、それは間違ったやり方ではないと思うのです。
 しかも、タイトル戦であれば特に持ち時間が長いので、それまでまったく理解できていなかった形でも、時間を使いながら何とか理解していくことができるのです。

 この羽生の発言は、我々のゲームプレイに対する一般的なイメージと比べるとかなり特殊だ。名人戦や、竜王戦、棋王戦といったタイトル戦は将棋マンガであれば、物語のヤマ場に置かれ「絶対負けられない戦い」として描写され、勝利にかける棋士同士の強烈な執念が描かれるような対象になるべきもののはずだ。
 しかしあの羽生善治が、それは違うと書いている。そして、興味深いことに、これは羽生善治という人の特殊性を表しているかというとそういうことでもないということだ。「ゲーム」を生業とするプロフェッショナルで似たような発言をしている人物を探すことはそう難しくない。たとえば、日本のプロゲーマーとして最も有名な梅原大吾も似たようなことを書いている。

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