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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第四章 風景と怪獣 2 ウルトラマンの風景(1)

文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。映画の時代の作品であった『ゴジラ』シリーズから、テレビの時代へと移り変わった先に登場した『ウルトラマン』における怪獣の変化について論じます。

2 ウルトラマンの風景

 私はここまで、戦後の特撮文化における「怪獣」の源流として、ドキュメンタリー志向と崇高の美学を挙げてきた。ドイツでも日本でもソ連でも、戦時下のプロパガンダ映画はドキュメンタリー的方法論やモンタージュを活用しながら、技術の最先端を走っていた。その尖兵であった円谷英二は、日本的な約束事の美から離れて、人間を圧倒する崇高な火山や嵐をスペクタクルとして作り出す。その後、戦後の円谷と本多猪四郎の共同作業において、虚構的ドキュメンタリーの対象は自然災害のような怪獣へと横滑りしていった。そして、これから論じるように、テレビの時代に入ると、さらなる新しいタイプの怪獣が風景とともに「記録」されることになる……。
 ところで、日本でドキュメンタリー的手法が活発化したのは、戦時下における劇映画のニュース映画化という局面だけではない。戦後にも何度かドキュメンタリーに注目が集まった時期がある。特撮との関わりで、ここでは二つの時期を挙げておこう。

ドキュメンタリーとジェンダー

 第一に重要なのは、一九五〇年代頃における「記録」への関心の高まりである。この時期に岩波映画製作所は、中谷宇吉郎の関わった科学映画『凸レンズ』(一九四九年)をはじめとして多くの記録映画を生産し、映画評論もその流れに呼応した。なかでも、一九五八年から六四年まで刊行された記録映画作家協会の機関誌『記録映画』は、花田清輝、安部公房、吉本隆明、針生一郎、寺山修司、東松照明、武満徹、大島渚といった錚々たる言論人を登場させるとともに、クラカウアーやヨリス・イヴェンスの論考も翻訳・紹介するという具合に、海外の映画の動向も含めて「記録」を問い直そうとする意欲的な雑誌であった。この雑誌に学生アルバイト編集者として参加していた佐々木守は、日仏のヌーヴェルヴァーグの映画も念頭に置きながら「昭和三十年代はいわばドキュメンタリーの時代であった」と総括している[23]。
 東宝特撮映画も「ドキュメンタリーの時代」と無縁ではなかった。例えば、『ゴジラ』の公開された一九五四年は、ダムの建設過程をつぶさに記録した岩波映画最大のプロジェクト『佐久間ダム』第一部の公開年でもあった。土木現場における岩山と掘削機械の強烈なぶつかりあい、人間を圧倒する物質的崇高の感覚、そして建設映画の劇伴を得意とした伊福部昭の音楽の効果もあって、この記録映画は『ゴジラ』の分身という印象を与える[24]。本多のドキュメンタリー志向は、戦時下の記録映画を変形的に継承したものであるだけではなく、同時代の「記録への意志」にも裏打ちされていた。
 さらに、ジェンダー論から見て興味深いのは、六〇年代初頭の東宝特撮映画において、カメラを手にした記録する女性たちが重要な役割を果たしたことである。例えば、『モスラ』における新聞社の女性カメラマン花村ミチ、あるいは『ガス人間第一号』における新聞記者の甲野京子はそのアクティブな行動力によって、異常現象をジャーナリスティックに解明する原動力となった。後の『ウルトラQ』第一話で「写真ですわデスク、写真に撮れば一目瞭然!」と言って飛び出していく新聞社のカメラマン江戸川由利子は、まさにこの東宝特撮映画における女性ジャーナリストの系譜に属している。ウルトラシリーズはその出発点において「ドキュメンタリーの時代」の想像力を引き受けながら、カメラを女性の主体化のための道具として用いていた。

 折しも同じ東宝映画では、林芙美子を主人公とした成瀬巳喜男監督の『放浪記』(一九六二年)が、女性による「書くこと」を否定的に取り上げていた。この映画は、同棲していた作家志望の男性(演者は『ゴジラ』に主演した宝田明)に散々苦労させられた女性作家の林(高峰秀子)が、売れっ子になった後も深刻な疲労感に襲われるシーンで閉じられる。実在の林は三〇年代後半以降、中国大陸や東南アジアのルポルタージュによって、まさに「ドキュメンタリー作家」として自己を主体化していったのだが、成瀬はそのような活躍には触れず、むしろ書けば書くほど自分を見失って、正体不明の倦怠に包まれていく不幸な女性作家として林を描き出した。「書くこと」や「記録すること」を介した女性の主体化という林芙美子のプログラムは、成瀬映画において意地の悪いやり方で損耗させられたのだ。
 したがって、本多と円谷の特撮映画が「記録する主体」としての女性を活躍させたことは、成瀬映画と好対照をなすものであり(『ゴジラ』でもオキシジェン・デストロイヤーの威力を「目撃」したのは、芹沢以外には河内桃子演じる山根恵美子だけであった――この怪獣映画は観客を感情移入させるのに女性の眼と声を効果的な媒介として用いている)、『ウルトラQ』もその延長線上にある。もっとも、その後の昭和のウルトラシリーズでは、女性隊員はサラリーマン組織の「紅一点」としておおむね通信担当に押し込められ、その保守性はフェミニズム的な視点から揶揄されもしたのだが[25]、少なくとも「ドキュメンタリーの時代」の東宝特撮映画の女性像には、むしろ同時代の成瀬映画よりも楽天的かつ進歩的な一面があったと言えるだろう。

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