いきもの水野さん_note

水野良樹×宇野常寛「歌謡曲/J-POPは成立するか――大衆音楽のゆくえ」(HANGOUT PLUS 12月19日放送分書き起こし)【毎週月曜日配信】

毎週月曜日夜にニコ生で放送中の宇野常寛がナビゲーターを務める「HANGOUT PLUS」。年内最後の放送となる2016年12月19日はいきものがかりの水野良樹さんをお迎えしました。情報から体験へと価値が移っている現代で、歌謡曲やJ-POPは成立するのか。異なる立場をとる水野さんと宇野常寛が音楽のゆくえを語りました。(※このテキストは2016年12月19日放送の「HANGOUT PLUS」の内容の一部を書き起こしたものです。)

▼ゲストプロフィール
水野良樹(みずの・よしき)
1982年生まれ。ソングライター。99年に吉岡聖恵、山下穂尊と「いきものがかり」を結成。06年メジャーデビュー。
作詞作曲を担当した代表作に「ありがとう」「YELL」「じょいふる」「風が吹いている」など。神奈川県出身。


「HANGOUT PLUS書き起こし」これまでの記事はこちらのリンクから。
前回:HANGOUT PLUSレポート 乙武洋匡×宇野常寛「もう一度この国が変わると思えるために」【毎週月曜日配信】

12月19日の放送は、いきものがかりのリーダーで、ソングライターの水野良樹さんをお迎えしました。音楽ジャーナリストの柴那典さん、livetuneのkzさんとともに、水野さんがPLANETSのイベントに参加してくださってから2年が経ちました。(「ポストJ-POPの時代――激変する音楽地図とクリエイションのゆくえ」)
この2年での変化、水野さんの音楽に対する想い、そしてこれからのJ-POPのゆくえをお聞きしました。

国民的ヒットより、人の中に溶け込む音楽を

水野 あのイベントも、もう2年前ですね。そんなに前なんだなあ。だいぶ状況も変わりましたけれど。2年前にイベントに参加させていただいて、「THE HANGOUT」に出させていただいて。刻一刻と状況が変わっていく中で、この放送のテーマでもある「歌謡曲・J-POPは成立するか」というのはすごく大きなテーマですね。ざっくりと言うと、宇野さんは「もう成立しないんじゃないか」と考えている。僕は「成立する」と思っていてそこに向けて頑張っている、というような立場ですよね。
歌謡曲やJ-POPというものが、特に今の日本の文化圏でちゃんと成立するのか、それこそ国民的という単語で表されるようなかなり広いセグメントを包括してそこに届くようなものが成立しうるのかと考えると、僕は2年前より難しいんじゃないかと思っているんです。

宇野 それは衝撃的な発言ですね。

水野 いやいや、僕は必ずしもネガティブにはとらえていませんよ。日本というドメスティックな文化圏の中で成立していたエンターテインメントの理想像である「国民的ヒット」は確かに成立しづらくなったけれども、むしろ世界的ヒットにはアクセスしやすくなったと思っています。ドメスティックな文脈でできた作品やエンターテインメントを、今度はその枠を取り払って、世界に出していったらいいんじゃないかって。こういう議論は前からあったと思うんですけど、それがより明確になった2年間だったと思います。

宇野 「国民的なJ-POPは成立しない」と仮定するなら、いきものがかりは今後いったい誰に向けて曲を届けていくのでしょうか。

水野 これは反省を込めて言うんですが、「J –POP」とか「歌謡曲」って、そういうものを表す単語がないから、よく使ってしまいがちなんですよね。でも、それらの理想像を実現することが僕の目的ではないんです。「こういう内容のメッセージです。このことについてはこういうことを思っています」ということが明確なメッセージソングを通して世の中の人の気持ちを変える、という形ではなくて、歌を歌ったり聴いたりすることを通じて、歌が生活の中に溶け込むことによって、その人が気づかないうちに恋愛への意識が変わるというようなことが自分の憧れているところなんです。そして、聴いてくれる人とか、その人のいる社会状況の中で、社会が求めている欲望や、こんなことを言いたい、こんなことを聞きたい、こんなことを見たいということが、巫女のように自分の中を流れていって、それが知らないうちに作品になっているーーそんな状況になったらすごくいいだろうなっていう気持ちがあるんですよ。僕らが憧れてきた歌謡曲、具体的には『上を向いて歩こう』のような曲は、すごくいろいろなことを実現していて、僕のような書き手に希望を与えてくれるような状況をたくさん成立させている曲なんですよ。

作品は必ずメディアを通して人に届くので、そのメディアが変わっていく中でどうすればいいのか、それはよく悩みますね。

J-POPでも歌謡曲でもない、物語の器としての音楽

宇野 『上を向いて歩こう』や『石狩挽歌』の頃は、社会の一部を歌うことによって全体を象徴する、という回路がしっかり存在していたんですよね。それがJ-POPになった時に自分の物語に変わっちゃったと思うんですよ。歌謡曲は社会の物語だったけれども、J-POPは「私はこんな瞬間にときめく」とか「人生のこんな瞬間にすごく心が動かされる」という、自分が主役の物語に変わったんです。これはたぶんカラオケと結びついていて、他人の物語や社会の物語を歌うよりも、自分の物語を歌う方が気持ちがいいからだと僕は思う。実際、この時期に同性が同性の曲を聴き始めてCDを買い始めたと言われていますよね。

ところが僕はこれが終わりの始まりだったと思っているんです。つまり、他人の曲を聴いてそこに感情移入するよりも、自分が本当に主役になった方が気持ちがいいと思うんですよ。彼女と一緒にフェスに行って声出してワイワイ騒ぐとか、アイドルの握手会に行って会話をするとか、そういったことの方が、直接的に自分を主役にしてくれるんですよね。だから僕はJ-POPって生まれながらにしてその終わりが見えていたような気がする。音楽という装置は、実は自分の物語を味わうコンテンツとしてはそんなに向いていない。音楽って本来は他人の物語を聴くものであって、それが歌謡曲がJ-POPに変わった時に、ちょっと狂ってしまったところがあると思うんですよ。

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