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第一章 ウルトラシリーズを概観する――科学・家族・子供(1) | 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』

文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、高度成長期の目まぐるしく移り変わる世相と絡み合いながら作られた『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』の系譜を辿ります。
本連載が書籍になりました。
昭和が生んだ最大のヒーロー「ウルトラマン」。高度成長期の〈風景〉を取り込みながら、特撮というテクノロジーによって戦後日本人の願いを具現化しつづけた「光の巨人」は、先人たちから何を受け継ぎ、ポスト平成の現代に何を遺したのか——?

福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』
第一章 ウルトラシリーズを概観する――科学・家族・子供

 一九六〇年代におけるテレビの普及と高度経済成長を追い風にして始まったウルトラシリーズは、金城哲夫や円谷一らを中心に作られた大きな設定のなかで、脚本家や演出家、美術家たちがそれぞれアイディアを盛り込んでいく一種の競技場のような様相を呈していた。したがって、シリーズの「作家性」は最初から複数的であったことを、まず大前提として述べておきたい。
 とはいえ、シリーズを一作ずつ見ていくと、それぞれの作品にある程度統一されたテーマ性があったことにも気づかされる。以下、放映順にその内容を概観していこう。なお、一般的には『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』を「第一期」と呼称し、『帰ってきたウルトラマン』以降は「第二期」と呼ばれるが、ここでは少し区分をずらして『帰マン』までを「前期」とし、続く『ウルトラマンA』以降を「後期」と呼ぶ。それは序章で述べたポストモダン化の傾向が『A』ではっきりするからである。

1 前期ウルトラシリーズ――シニシズムから右翼性まで

ウルトラQ――プリミティヴィズムとシニシズム

 一九六六年一月にTBSで放映開始された『ウルトラQ』は、東海弾丸道路の北山トンネル工事現場にゴメスとリトラという二匹の古代怪獣が出現する話で始まる(ゴメスは『モスラ対ゴジラ』のゴジラの改造、リトラは操演用ラドンの改造であり、東宝特撮映画の財産が早速継承されている)。産業社会を拡張しようとする土木作業の現場が、太古の怪物を呼び覚ましてしまう――、この導入部には、未来に向かって「工事中」の日本に根ざしながら、怪獣をそのごつごつとした風景の隙間に出現させるというウルトラシリーズの大きな方向性が、すでに予告されていた。特撮テレビ作りのノウハウが未完成であったときにウルトラシリーズが作られたように、日本の風景が未完成であったときにそれを脅かす怪獣たちが呼び出されたわけだ。
 とはいえ、『Q』の語り口は前近代的な民話とは異なる。ちょうど『ゴジラ』が志村喬演じる古生物学者・山根博士の科学の「語り」を介して考古学的な時間に遡ったように、『Q』でもあくまで近代的な科学とジャーナリズムの視線によって、異なる時空への扉が開かれた。SF作家でパイロットの万城目淳とその後輩の一平、そして新聞記者の江戸川由利子という三人を主役に据えた『Q』は、現実離れした出来事を科学的かつジャーナリスティックに追求するというポーズをとった。この「虚構の現実化」の構えのなかで、ゴメスとリトラ以降も、『Q』には六千年前にアランカ帝国を滅ぼした貝獣ゴーガ、深海に棲む海底原人ラゴン、南島で信仰の対象となっていた巨大ダコのスダールといった原始的な怪獣が何度も現れる。
 一般化して言えば、このことは古典的なものより原始的なものを好みがちな戦後日本の文化的傾向に連なっている。例えば、美術家の岡本太郎が縄文土器に傾倒し、一九七〇年の大阪万博で《太陽の塔》を出現させたこと、さらにそれ以前に一九五〇年代の建築業界で丹下健三と白井晟一を中心に「縄文的なもの」と「弥生的なもの」をめぐる論争があったことをはじめ、文明の歴史を省略して一息に原始社会にまで遡ろうとする「脱歴史化」の欲望は、戦後の文化を特徴づけるものだ。特撮もその例外ではない。むろん、記紀神話に取材した稲垣浩監督・円谷英二特撮監督の東宝の大作映画『日本誕生』(一九五九年)もあるし、生前の円谷は『竹取物語』の映画化を熱望していたが、総じて特撮の素材としては、由緒正しい古典文学よりも荒々しい太古の怪獣のほうが魅力的であった[1]。
 このプリミティヴィズム(原始主義)とともに『Q』を特徴づけるのは、科学の夢に対するシニシズムである。例えば、当時の宇宙開発競争への批評を含んだ火星からの悪夢的な「贈り物」怪獣ナメゴン、東京上空で文明のエネルギーを吸ってひたすら膨張する風船怪獣バルンガ、科学によって驚異的な長寿と運動能力を獲得しながらも老いに苦しむケムール人、人間を縮小して人口増大に対応しようとする風刺的な「1/8計画」等は、科学に対する辛辣なメッセージを発していた。『Q』の怪獣は日本社会の抱いた夢や象徴を反転させることによって生まれたものなのだ。
 こうして、『Q』は科学とジャーナリズムの語り口のなかで、科学は必ずしも人間を幸福にしないというメッセージを発し続ける。このシニシズム(=対象を信じつつ信じないという二重の心理)は、夢の悪夢化あるいは夢の否定をもたらした。夢のなかで幽体離脱した少女の分身が本体を殺そうとする第二五話のホラー「悪魔ッ子」を経て、『Q』の最終話「あけてくれ!」(再放送時に初放映)では、冴えないサラリーマンの男が空飛ぶ列車に乗り込むものの、その出口なしの密室のなかで深い恐怖心に囚われる。干からびた現実から夢の世界に逃れても、そこもやはり息苦しい閉鎖空間にすぎない――、この夢のシニカルな否定が『Q』の出した一つの結論であった。
 もっとも、プリミティヴィズムやシニシズムと言っても、『Q』はじめじめとした土俗的情念とは無縁であり、おおむね都会的な外見を保っている。それには音楽の貢献も欠かせなかった。本多猪四郎監督の『ガス人間第一号』(一九六〇年)に続いて『Q』でもジャズの感性を活かした宮内國郎の劇伴音楽は、下手をすればいたずらに重苦しくなりそうな作品世界に軽快なリズムを与えた。『ウルトラセブン』以降はクラシックを学んだ冬木透が多様な楽器で雄弁な劇伴音楽を作り出し、『セブン』の有名な最終話では大胆にもディヌ・リパッティの弾くシューマンのピアノ協奏曲が使われもしたのだが、その前に『Q』および『ウルトラマン』で宮内の比較的シンプルな音楽が有効に機能したことも無視できない。
 ともあれ、『Q』には「科学的合理性を嘲笑うプリミティヴィズム」と「明るい未来を相対化するシニシズム」が同居している。これは文化史的にも重要な里程標だと考えてよい。例えば、一九七〇年代以降、日本のサブカルチャーは諸星大二郎の漫画や宮崎駿のアニメを典型として、『もののけ姫』的な「古代への人類学的回帰」と『風の谷のナウシカ』的な「未来のSF的破局」という二つの対照的なパターンをしばしば交差させてきたが、現在から古代と未来にさまよい出ようとする、この戦後サブカルチャーの時間錯誤の傾向は、『Q』ですでに表出されていた。

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