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宇野常寛 汎イメージ論――中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ 最終回 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」(2)

本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。共同幻想に抗うための方策――モノによる自己幻想の強化、あるいは夫婦・兄弟の対幻想の構築は、いずれも頓挫する宿命にあります。それに対して、チームラボのアートは「他者」を読み替えることで、自己幻想の解体を試みます。(初出:『小説トリッパー』 2019 春号

4  あたらしい対幻想

 では、チームラボの作品群は「超主観空間」をコンセプトにした初期から、「三つの境界線の消失」にいたる今日にいたるまで、いかに発展し、そして吉本の述べる「母系的な」情報社会のもたらすボトムアップの全体主義を克服してきたのだろうか。
 吉本は『共同幻想論』において、対幻想のうち親子/夫婦的な対幻想に立脚することで共同幻想からの独立を説いた。しかし前述したようにこの親子/夫婦的な閉じた対幻想こそが、今日におけるボトムアップの共同幻想による「下からの全体主義」の温床となっている。
 これはどういうことか。今日の情報社会において共同幻想は自己幻想、対幻想を強化するための材料として機能する。国民国家の代表する大きな共同幻想が小さな個人をトップダウンで飲み込むのではなく、自己幻想を成立させるために、もしくは対幻想を成立させるために――たとえ世界のすべてがあなたを否定しても、私は無条件であなたを肯定する、という物語が成立するために――共同幻想が素材として導入される。自己を確認するために、あるいは閉じた二者関係を強化するために、私たちは誰から強制されたわけでもなく二〇世紀的なイデオロギーに回帰するのだ。
 かつて戦後の消費社会下で対幻想は――戦後的な標準家庭の核家族を支えた対幻想は――天皇主義や戦後民主主義という共同幻想に依存しない、強くしたたかな「大衆の原像」を育んだ。しかしその一方で、それは標準化された「普通」という価値観を周囲に強制し、同調圧力で出る杭を打つことで、マイノリティを抑圧し、排除するテレビバラエティ、テレビワイドショー的な「下からの全体主義」を育んだ。ここではトップダウンではなく、ボトムアップの共同幻想がイデオロギーではなく同調圧力として、日本社会を支配しているのだ。この状況に風穴を開けることを期待されたインターネットは、Twitterの登場によってテレビ的な「下からの全体主義」を補完する装置に成り下がった。こうして情報技術に支援されることで、戦後日本的「母性のディストピア」は強化温存されたのだ。
 ではどうするのか。この「下からの全体主義」を生む「ボトムアップの共同幻想(大衆の原像)」から、いかに私たちは「自立」すべきなのか。たとえば糸井のアプローチは消費社会に撤退することで自己幻想を操作し、それによって情報社会――「下からの全体主義」を生む「ボトムアップの共同幻想(大衆の原像)」に流されない主体の形成を目指したものだと言える(その限界は既に指摘済みだ)。
 自己幻想の操作による「大衆の原像」からの「自立」が難しいのならば、やはり私たちは対幻想の水準で考えるしかない。しかし親子/夫婦的な閉じた対幻想こそが「大衆の原像」の温床となったこともまた既に指摘済みだ。よって、私はここで吉本がかつて排除したもうひとつの、開かれた対幻想に立脚する可能性を考えたい。
 それは兄弟姉妹的なもうひとつの対幻想だ。『共同幻想論』にはふたつの対幻想が登場する。一つは夫婦親子的、核家族的な「閉じた」対幻想だ。もうひとつが兄弟姉妹的な「開かれた」対幻想だ。前者は時間的な永続を、後者は空間的な永続を司る。前者は閉じているがゆえに二〇世紀的なトップダウンの共同幻想に対する防波堤になり、後者は開かれているがゆえにむしろそれと結託する(よって、前者を足場に私たちは共同幻想から自立すべき)というのが吉本の主張だった。しかし、今日において両者の関係は逆転している。今日においては、前者の閉じた対幻想こそが信じたいものを信じ(フェイクニュース)、それを守るために同調圧力(下からの全体主義)を生むボトムアップの共同幻想の温床となっている。信じたいものを信じるという態度にインスタントに承認を与えるという点において、「二者関係に閉じた」対幻想は情報技術のもたらしたポスト・トゥルースの時代との親和性が高いのだ。
 対して兄弟姉妹的な「開かれた」対幻想はどうか。かつて、まだ「市場とテクノロジー」ではなく「政治と文学」で世界と個人との関係性が記述されていたころ、この対幻想はトップダウンの共同幻想=イデオロギーによって家族が捏造される(「我らが同志、すなわち兄弟!」)時代には、かんたんに共同幻想と結託し得るものだった。いや、この事実自体は今日も変わらない。しかし、現代では空間の広がりは国家のみと結託するわけではない。むしろ逆だ。今日において国家という共同幻想と結託することは、むしろローカルな既存の「家族」に引きこもることを意味する。空間的な永続を追求することは、グローバルな市場という非共同幻想的なシステム上に、そのネットワークを、「家族」を拡大することを意味するのだ。
 現にグローバル化とは何かを考えてみれば良い。それは国民国家の国境の消失などではない。グローバルな情報産業が栄えるメガシティのネットワークが発達することだ。グローバルな都市のネットワーク(非共同幻想的なシステム)に、ローカルな国民国家(ポピュリズムの結果として民主的に、ボトムアップで生まれる共同幻想)がそのアレルギー反応の場として再召喚される。それが今日の世界なのだ。
 連載の冒頭で紹介した、六本木の「意識の高い」IT事業者たちの語り口を思い出してもらいたい。彼らの自意識は国民国家の住人のものではなく、グローバルな市場のプレイヤーのそれだ。彼らは共同幻想を必要とせず、世界中の「兄弟」に対等な立場で語りかける。問題は彼らの語り口そのものが境界を再生産していることだ。新世界と旧世界を、境界のない世界とある世界との「境界」を再生産していることだ。
 では、シリコンバレーの起業家とラストベルトの自動車工は、いかにして「兄弟」足り得るのか。それもトランプ的な国民国家という共同幻想への回帰なくしてあり得るのか。

5  更新される他者像

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