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デジタルネイチャー時代の『人間機械論』(前編) | 落合陽一

今朝のメルマガは落合陽一さんの『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』の第2回です。半世紀以上前、サイバネティクスの創始者ノーバート・ウィーナーによって発表された『人間機械論』を2016年の世界に読み替えながら、人間と機械の境界が融けた社会における文化・コミュニケーションを論じていきます。
◎構成:長谷川リョー

落合陽一『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』
第2回 デジタルネイチャー時代の『人間機械論』(前編)

「人間はモデリング可能な機械」と看破したノーバート・ウィーナー

第二回目のテーマは「デジタルネイチャーと魔法の世紀」です。
『魔法の世紀』では、モリス・バーマンの著作『デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化』(1988年)と、マーク・ワイザーの論文「21世紀のコンピュータ(The Computer for the 21st Century)」(1991年)を下敷きに、世界を読み解きました。
文章中では直裁的には触れてはいませんが、これらの著述には、20世紀前半に活躍した数学者ノーバート・ウィーナーの世界観が大きな影響を与えています。彼の著書『サイバネティクス』では、「人間の行動をどう数理的にモデリングしていくか」「人間は機械として捉えることができるのではないか」という主題が初めて提唱されましたが、それを一般向けに啓蒙しようと著したのが『人間機械論』です。副題には「人間の人間的な利用」と付されていますが、これは『人間機械論』を理解する上で非常に重要なフレーズとなります。

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▲ノーバート・ウィーナー(1894年〜1964年)(画像出典

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『サイバネティックス――動物と機械における制御と通信』

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『人間機械論 人間の人間的な利用』

たとえば、工場の流れ作業に従事している人がいるとします。その労働者は、視覚的な認知と筋肉を動かす単純な動作しかしていません。人間には本来、創造的に思考する能力があるのにも関わらずです。この状態は、ともすれば極めて非人間的に映ります。
労働社会において、人間が非人間的に扱われることへの問題提起から始まるのが『人間機械論』です。もちろん、この問いは現代においても当てはまる部分があります。コンビニでアルバイトをしている人が、人間としての能力をフルに使っているかといえば、恐らくそうではないでしょう。
この「人間」の本質を問う価値観は、フランス人権宣言などからも明らかなように、16~17世紀のヨーロッパ世界に端を発しており、その背景には、「我思う、ゆえに我あり」で有名なデカルトをはじめとする思想家たちの存在があります。
また、「労働」についても、ヘーゲルからマルクスへと続く社会経済思想の系譜が、いかに富を蓄え再分配するかという資本主義下の社会システムや経済状況を読み解く上で、強い影響力を持ち続けています。

こうした思想史の大前提を押さえた上で、我々がデジタル社会で直面する問題を考える中で避けられないのが、ノーバート・ウィーナーです。工学者でありながら社会批評家としての視点も併せ持ち、社会がどういった仕組みで動いているのかを、文理両面から探求しました。
彼は科学史的には、大学の工学部で必ず習う「フィードバック制御」の概念の提唱者として知られています。これは出力の結果を入力側にもう一度戻す機構のことで、たとえば移動している対象をカメラで捕捉するために、カメラで対象を撮影するだけでなく、その撮影した映像を元にカメラの位置を自動的に調整する。対象から得た情報を出力元に還元するような操作を指します。

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