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学習説はどこまで説明ができたのか | 井上明人

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームの定義として最有力である「学習説」は、「ゲームという現象」を完全に説明するには至りません。中世の天動説的ともいえる学習説の合理性・説明性の高さを前提に、複数の動的システムの相互関係に基づいた、地動説的な仮説の構築を試みます。

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
第28回 学習説はどこまで説明ができたのか

3.9 学習説はどこまで説明ができたのか

3.9.1 複数の機序による説明:天動説から地動説へ

 学習説はゲームに関わる諸現象の多くを説明する。そしてそれは、学習説の有効性を示すものだ。しかし、同時にここまでの議論で明らかになったことは、学習説だけでゲームに関わる諸現象を説明しきることができない、ということでもある。
 改めて、学習説はゲームに関わる主要な現象の「全て」を説明できるのだろうか、という問いを立てながら、この第三章で明らかになったことを確認したい。
 たとえば、『ReZ』のような新奇なインターフェイスを触ることの楽しみを説明できるだろうか?あるいはオンラインゲームでコミュニケーションをとる人々の楽しさを説明できるだろうか?直接に説明できなくても、何らかの強い関連性を示すことができるだろうか?
 答えはイエスとも、ノーとも言えるが、どちらかと言えばノーと言える側面のほうが強い。
 イエスと言えるのは、ある程度の説明を与えることが可能だからだ。新奇性のある刺激について、人間の慣れや学習といった側面から説明してみせることは不可能ではない。コミュニケーションの快楽を、報酬系から説明を試みる立場もある。
 ノーであるといえる根拠は、多い。
 第一に、学習説には説明できないが他の説によって説明できてしまうような悩ましい境界例がある。たとえば、一回限り試合、パズル、プレイヤーのいないコンピュータ・チェスなどはルール/ゴール説からは説明できる。しかし、学習説の視点から説明しようと思うと、説明が困難になる。(むろん、三目並べなど学習説だからこそ説明できる事例もある)。それらを排除しようと思うのならば、議論の範囲を意図的に狭めたりしなくてはならなくなる。
 第二に、学習プロセスと連続はしているものの、途中から学習プロセスの機序では説明できなくなってしまう関連現象が存在している。たとえば、物語的な認知や、依存プロセス、均衡の問題などは、学習と連続はしていても、学習説の機序だけで説明することは困難だ。
 第三に、仮に関連性が論じられるにしても、関連性がどれだけあるか、難しいケースも多い。コミュニケーションやインターフェイスの問題に踏み入っていく場合、本当に学習説でクリアな説明ができるかと言われると、明快な説明を行うことは難しいからだ。「おそらく関連がある」とかそういった説明をしていくことになるはずだ。たとえば、他者との共在感覚は人間の発達過程のかなり初期から存在するものだ。そして、複数人で遊ぶときにこの共在感覚は少なくない機能を担っている。コミュニケーションとゲームの関係を論じる上では、学習説が何かの原因や結果として機能している側面はそれほど強くない可能性がある。また、インターフェイスについても、たとえば人間の空間認知や触覚の問題と切り離して論じることは難しい。学習説と関連付けることはできても、どこまで強い関係性を見出すことができるかというと、厳しいところがある。

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