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【対談】中川大地×遠藤雅伸「日本ゲームよ、逆襲せよ『ゼビウス』から『ポケモンGO』への歴史を超えて」(前編)

好評発売中の、評論家・編集者の中川大地さんによる大著『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』。その刊行を記念し、2017年1月27日に下北沢B&Bで、中川さんとゲームクリエイター・大学教授の遠藤雅伸さんの対談が行われました。今回は、その模様を再構成してお届けします。伝説のシューティングゲーム『ゼビウス』の開発に携わり、日本ゲームの黎明期から業界を見続けている遠藤さんと、独自の視点からゲーム史を語り尽くします。(構成:籔和馬、中野慧)

『ゼビウス』の革新性と歴史的影響

中川 『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』を出すことができたのは、ゲーム史のキーパーソンとして、『ゼビウス』(1983年)を出された遠藤さんがいらっしゃるからでもあるんです。『ポケットモンスター』(1996年)を作られた田尻智さんをゲーム業界に導く大きなきっかけを作ったのが『ゼビウス』だったんですよね。そして遠藤さんと田尻さんが積み重ねたものの上に、今の『ポケモンGO』(2016年)の世界的なブームがあると思います。そこで本書の刊行イベントを行うのであれば、ぜひとも遠藤さんをお招きしたいと思い、今回お声がけをさせていただきました。

 社会学者の見田宗介さんが、戦後をおおよそ15年ごとに、「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」という3つの時期に区分していますよね。これは、現実が何と向かい合っていたかによって、戦後の文化史・精神史を記述しようという試みだったわけです。『現代ゲーム全史』ではこの見田さんの見立てにヒントを得ながら、ゲームとテクノロジーの発展を書いています。
 そこで、まずはそれぞれの時代において、遠藤さんがどのようにゲームやコンピュータテクノロジーに取り組まれていったのかを、前半の話の軸にしていきたいと思います。

 まず1945-1960年の「理想の時代」。第二次世界大戦の時代に原爆開発の物理的なシミュレーションのために生まれたのがコンピュータで、その開発の中から、スピンアウト的にコンピュータゲームは発展していきました。
 次に1960-1973年の「夢の時代」。巨大だったコンピュータが小型化し、『Spacewar!』(1962年)という宇宙戦争を題材にしたゲームが出ましたよね。これが、直接の触発例になって、ノーラン・ブッシュネルが『Computer Space』(1971年)という世界初のアーケードゲームを作りました。

 そして1973年から始まる「虚構の時代」。ノーランがアタリ社を設立し、『PONG』(1972年)を出しました。コンピュータを使ったゲームがアーケードゲームに入り込んで、初めて収益的にも大きな成功をしたんです。コンピュータ自体もこの時代になると民生用の家電として普及し始めましたよね。1972年に家庭用テレビゲームも生まれ、アタリがソフト交換式のゲーム機「Atari VCS」を出しました。遠藤さんがゲームに関わり始めたのはこの時代からですよね? 

遠藤 僕がゲームで遊び始めたのはこの頃からでしたね。『スペースインベーダー』(1978年)を大学生時代にプレイしていたんですよ。70年代末の大学生文化で『スペースインベーダー』は非常にポピュラーなものでした。

 それと同時期に「Atari VCS」の上級バージョンで、ゲームが遊べる「Atari 800」というパソコンをお金持ちの友達が持っていたので遊ぶことができて、それでアタリファンになりましたね。

中川 その時期のパソコンは、ある種の特権階級の人しか持てないものでしたよね。その後、80年代に入って、ようやく日本でも「マイコンブーム」と呼ばれる、最初のパソコン普及期が訪れるわけです。今のように生活必需品ではないので、ゲームを遊べる環境の格差がありましたよね。その格差を変えるきっかけになったのが、任天堂の「ゲーム&ウォッチ」(1980年)です。これを大当たりさせた任天堂が、さらに3年後に「ファミリーコンピュータ」(1983年)を出しました。それ以前はエポック社の「カセットビジョン」などがありましたけど。

遠藤 いくつか出ていたけど、今も残っているのはファミコンくらいですね。

中川 ファミコン登場以前には戦国時代のような状況だったんですよね。これの一つ前の時代だと、『ポン』みたいなテニスゲームや、ブロック崩しのようなシンプルなゲームが主流でした。この時代になってようやく一般の子供たちが、アーケードで遊べる『パックマン』のようなゲームと似たような水準で遊べるテレビゲーム時代が始まります。

 この時期に遠藤さんもゲーム制作を始められたと思うのですが、遠藤さんがゲームを作る側になるプロセスは具体的にどういったものだったんですか? 

遠藤 僕自身は、高校で演劇、大学で映画をかじっていました。でも当時は今と違って、そのどちらも産業としては成り立たないレベルでした。創造的なものの未来を考えたときに、ビジュアルとサウンドを載せたものが今後新たな総合芸術になる可能性を感じていたんですが、その頃に就職活動に失敗したんです。それで何か面白いことをやりたいと思い、コンピュータとゲームに関係した仕事を探していたました。で、アタリに行きたいと思ったんですが英語ができないので、アタリジャパンの親会社である「ナムコ」に行って自分を売り込んだ結果、働かせてもらえることになったんですよ。

中川 コンピュータスキルはあったんですか? 

遠藤 まったくなかったです。なので、1ヶ月くらいでプログラミングを覚えました。プログラム言語は頭にあるものを記述するだけで、表現が簡単だったんです。当時のゲームのプログラム量は、今の画像1枚より少ないですからね。

中川 遠藤さんのゲーム業界への入り方も画期的だったと思います。遠藤さんより以前の時代、ゲームクリエイターといえばコンピュータ技術者でしたが、遠藤さんの場合はむしろ映像や演劇に造詣が深いわけですよね。

遠藤 綺麗なもの、新しいものを見せたいということをずっと考えていました。だから、同じ系統の作品は連作していません。

中川 1980年代前半の段階では、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』をきっかけとするアニメブームが勃興していて、他にも様々なカルチャーが盛り上がりつつありました。橋本治さんはそういった様々なカルチャーの立ち上がりを、政治闘争から文化闘争に社会のパワーがシフトしたという意味で、「80年安保」と呼んでいたりします。

 遠藤さんは1983年、ちょうどファミコン発売と同年に『ゼビウス』を世に送り出されました。『スペースインベーダー』などそれまでのゲームがあくまでも画面上で展開される反射神経的快楽だけで作られていたのに対し、『ゼビウス』はビジュアル的にも体感的にもゲームの画面の先に不可視の世界があることを感じさせるバックストーリーをあらかじめ作られていたり、敵キャラが個性的な動きで出てきたりします。富野由悠季監督がアニメのカルチャーを変えていった空気を吸収されて、ゲームの方へ持ってこられましたよね。遠藤さんは80年代前半の同時代カルチャーをどのように見ていたんですか?

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