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二次的フレームの形成 | 井上明人

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲーム好きが一度はハマる「やりこみ」、この本来の遊びの範疇を逸脱する奇妙な欲望を手掛かりに、「フレームからの逸脱」と「一時的現実に対する複数の合理性」という2つのゲーム的形式を論じます。

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
第17回 二次的フレームの形成

3-4-4.二次的フレームの形成

 前々回、気ままにポケモンを遊んでいるこどもに強制でポケモンを遊ばせたところ、ポケモンに飽きてしまったという話を紹介したが、その逆のような話をしたい。
 何かのゲームにハマりまくった結果、誰にも強制されていないはずなのに、苦行のようなゲームプレイをしてしまったということはないだろうか。ある程度、一つのゲームをずっと遊んでいると普通のゲームプレイではあきたらなくなってくるということは、ゲームが好きな人であれば多くの人が体験として知っていることだろう。
 こういったゲームをやりこむという行為で有名なものの一つに、かつてファミ通で実施されていた企画である「やりこみ大賞」というものがあった。とてつもなく暇人でなければ達成できないのではないか、という驚異的で変態的なゲームの遊び方がしばしば投稿された。とりわけ、多くの人に衝撃を与えたやりこみに『ロマンシングサ・ガ3』(ロマサガ3)の「セレクトボタンを押さずにクリア」というものがあった。『ロマンシングサ・ガ3』では、セレクトボタンはいわゆるメニューボタンであり、これを押せないということは(1)ノーセーブクリア、(2)初期装備のままクリア(3)陣形・キャラ配置・技の入換え不可(4)ステータス確認不可ということを意味している。
 これは同じゲームをある程度やりこんだ人にとっては大きな衝撃を生んだようで、あらたな「やりこみ」を導いた。次の引用は、ファミ通のやりこみ大賞を見て、自分でもやりこみをはじめたという人が書いたテキストだ。[1]

当時中学生だった私は「セレクトボタンを押さずにクリア」を始めてみたとき、感動に身を震えさせました。
想像を絶する内容のやりこみが大賞に選ばれて「これ以上のやりこみはもう生まれないだろうなあ」と素直に思いました。
まだまだ小さな視野でしかロマサガ3を触れなかった私には別次元の存在を見せ付けられた心境でした。
無理とか不可能とかいうレベルではなく、賛美するしかないような威圧感のあるやりこみ。
それが私にとっての「セレクトボタンを押さずにクリア」です。
それから8年の歳月の間このやりこみの影を追うようにロマサガ3と付き合っていました。
ロマサガ3のやりこみの見るたびに必ず「セレクトボタンを押さずにクリア」をものさしにしている自分が居ました。
それは"崇拝"という言葉がもっとも近い表現でしょう。
しかし自分がロマサガ3のやりこみ人としてネットで活動し始めてから、徐々にその信仰は薄らいでいきます。
自身の達成したやりこみも「セレクトボタンを押さずにクリア」をものさしにして自虐していることに気づいたとき、ひどい嫌悪感に陥りました。
崇拝なんて奇麗事ではなく、自身が達成できない領域にあるものに対して嫉妬していただけだったのではないか。
その事実に気づいたとき、無性に悔しくなり、決心します。

私も「セレクトボタンを押さずにクリア」を達成しよう

いつまでも影を追いたくなんかない。
自分のやりこみに自信を持てない人間なんかやりこみなんて語ることすらおこがましい。
過去の自分に決別する意味でもやらなければならないと感じました。
こうして2004年1月のある日、私は1年ぶりにロマサガ3とSFCを押入れから取り出したのです。

それから数ヶ月の間は空いた時間に少しずつロマサガ3のデータを集めながらテストプレイを行う日々が始まりました。
最初は不可能だと思っていた「セレクトボタンを押さずにクリア」も徐々にその形を現してきました。
8年前に容赦なくたたきつけられたハードルがようやく私にもしっかりと見え始めてきたのです。
そして4月のある日、一つの攻略ルートを叩き出しました。
この攻略ルートこそ私が三ヶ月の歳月をかけて完成させた「セレクトボタンを押さずにクリア」です。
あとはその攻略ルートをベースにテストプレイやリハーサルプレイを重ねついに5月7日に「セレクトボタンを押さずにクリア」を達成しました。

 ゲームをやりこむということは多くの人が経験しがちな体験であるが、この人固有の『ロマンシングサ・ガ3』への情熱は他人とは異なる特殊なものである。この特殊で、強い情熱は「気ままに遊ぶ」というありかただとは言い難い。
 筆者にとっても『ロマンシングサ・ガ3』は合計で一五〇時間以上は遊んだ記憶があるが、おそらく筆者が把握しているゲームと、この人にとって見えているそれは半分以上違うゲームだ。
 実際に、この人が引用部のあとに詳細に述べている『ロマンシングサ・ガ3』の攻略についての話は、筆者が記憶しているそれとはだいぶ違っている。正直なところ、何を言っているのか、細かいところはよくわからない。先に挙げた基準でいえば「意味的独立の共有可能性」を満たしているといえるのかどうかが怪しい。この人が使っているゲーム内の攻略を指し示す用語も体感レベルではよくわからないし、楽しみどころも、苦しみどころも、体験を共有しているとは言い難い。
 もちろん、それは同じ『ロマンシングサ・ガ3』であっても、「セレクトボタンを押さずにクリア」を押さずにクリアをしているという新たなルールを課したことで、ルール上も別のゲームに変質してしまっているから、ということができる。しかし、ここまで激しいやりこみにならなくとも、この一歩手前、二歩手前ぐらいのレベルまである特定のゲームをやりこむとこれに近い状況がでてくることはある。これといって特殊なルールの縛りをつけると決めたわけでなくとも、その人固有のこだわりのようなものがボンヤリとかたちをとってきて、同じゲームを遊んでいるはずが、少しずつ違った体験を構成しているということはよくある。
 たとえば、筆者の友人のS氏にとっては『スーパーマリオブラザーズ』は「いかに手際よく無限1UPをするか」というところがゲームの醍醐味だという。おそらくそういった形で遊んでいる人はほかにもいるのだろうが、筆者はそういう遊び方はしていなかったので、S氏の話す『スーパーマリオブラザーズ』の話は同じゲームの話をしているとは思えないときがあった。

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