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宮台真司×宇野常寛 〈母性〉と〈性愛〉のディゾナンス ──「母性のディストピア」の突破口を探して(後編)

宇野常寛の著書『母性のディストピア』をテーマにした、社会学者の宮台真司さんと宇野常寛の対談です。後編では、9.11以降に社会学が陥った隘路や『ブレードランナー2049』について言及しながら、母性の圏域を突破する鍵となる概念〈キッチュ〉と〈フェティッシュ〉の可能性について語り合います。
(前編はこちらから)
(中編はこちらから)

〈残酷さの回避〉か、あるいはニュータイプか

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▲『母性のディストピア

宮台 ここで『母性のディストピア』の図式を改めて整理します。まず、宮崎駿、富野由悠季、押井守といった戦後日本のアニメ作家たちには、〈母性に庇護されたフェイク父性〉を演じるヘタレ男の男性性を更新するという、共通のテーマがありました。江藤淳や村上春樹も共有していた問題設定だけれど、彼らは皆それに失敗しました。

他方、〈フェイク父性〉の拠り所である国家を無化するカルフォルニアン・イデオロギーが現れます。それは国境線を消し去り、国家に依らない新たな男性性を打ち立てるかに見えて、挫折しました。なぜならITが実現する「見たいものだけを見る」空間もまた〈フェイク父性〉を支える母性として機能し、〈フェイク父性〉がむしろ劣化したからです。

最後に処方箋として「中間的なもの」が提出されます。僕はこのイメージが今一つ明確に掴めませんでしたが、ITテクノロジーによる「中間的なもの」の構築によって、市民でも大衆でもない、〈フェイク父性〉にも巻き込まれない存在を生み出し得るとされます。でも、この言葉をブレイクダウンしようとすると、よく分からなくなるのですね。

現実を見ると、「中間的なもの」に当たるコミュニティは、シェアハウスや私塾からスワッピングサークルまで含め、既にそれなりのボリュームがあります。この本はマクロな社会的劣化を論じていますが、処方箋が中間集団への回帰であれば撤退戦になります。僕自身はマクロな処方箋はあり得ないと判断して、撤退戦にコミットしているのですが。

宇野 撤退戦だと言われればそうかもしれません。もしかしたら世代的なものかもしれませんが、僕はそもそも中間集団が機能していた時代を知識でしか知らないので、多少なりとも再構成できるなら十二分に希望になり得る、と感じているというのが正直な感想です。

たとえば僕がこの本で想定している中間的な集団を構成するのは、政治的には都市無党派といわれる層です。しかし、この層はこれまで中間層として機能してこなかった。なぜなら組織化が難しかったからです。その活用に初めて成功したのが、平成の改革勢力です。彼らはテレビポピュリズムを利用して風を吹かせることで都市無党派層を動員し、自民党や共産党の組織票に対抗した。とはいえ結局のところ、ポピュリズムは一過性のものなので、必然的に敗北していきました。しかし、やりようは他にもっとあったはずです。

たとえば、インターネットがある程度普及した段階で、彼らはテレビポピュリズムを捨てるべきだった。本来、情報技術は柔軟な能動性にアプローチしていくためのもので、たとえば、能動的なメディアの「映画」と、受動的なメディアの「テレビ」がある。それに対してコンピュータはその〈中間〉にあって、常に切り替わっていく人間の能動性に柔軟に対応するメディアです。本来、情報技術は〈中間のもの〉を再構築する場だった。

宮台さんの世田谷のワークショップや、江田憲司さんが神奈川の高級住宅街でやっていることが、まさにそれに当たるのかもしれませんが、都市部の無党派層を構成する新しいホワイトカラー、脱戦後的なライフスタイルを送る共働き世代、あるいはネット世代のクリエイティブクラスを、新しい中間的な集団として組織化すべきだったと思うわけです。

この層はこれまでの世代とはライフスタイルが全く違います。家族構成も、住居への意識も、資産の運用方法も、接しているメディアも違う。そして、この層は世界的に増加している。なぜならそこには生活上の要求があるからです。

米国の西海岸でUberを展開しているのはギーク出身のエスタブリッシュメントですが、サービスを利用しているのは基本的に移民貧困層で、言語にハンデのある彼らがてっとり早く稼ぐためのインフラとして利用されています。実は日本のタクシー市場もそれに近くて、首都圏では運転免許証以外に資格を持たない層が年収500万円に到達できる唯一の回路となっている。日本は規制の関係でUberの導入は難しいですが、ああいった形でブルーカラー層にリーチし、シェアリングエコノミーを用いて相互扶助のネットワークを拡大していく戦略はありえる。というかこうしたコミットを拡大していくしかないというのが僕の判断です。

宮台 インターネットのアーキテクチャを用いて非集権的に信用を構築する仕組みは仮想通貨のブロックチェーンを含めて現実的です。中国ではQRコードを使った信用システムが底辺層から拡大しました。信用点数を下げないために悪いことをしないからです。ドゥルーズ的なアーキテクチャ型権力の制御で、市民社会のフィール・グッドな外形が保たれます。 といはえ、信用点数を貯めるためにおとなしく振る舞う底辺の人々が、友達を作れるのか、彼女を作れるのか、仲間を作れるのか、孤独でなくなるのか…というところまで考えると、残念ながら、その効用はベーシック・インカムが果たす機能と同程度の範囲──感情の劣化に関わる経済要因の制御──に留まります。その意味でもやはり撤退戦なのですよ。

「感情の劣化に関わる経済要因の制御」と言いましたが、経済面で生活に関わる不安があると、人は感情の劣化を被りがちで、そうした状態で政治に参加すれば、経済面での不安定化を促進する政治的選択──戦争──が現実化し、悪循環が止まらなくなります。そうした「経済的劣化ゆえの政治的劣化を食い止める機能」が、そうしてアーキテクチャにはあります。

宇野 もちろん、友達を作れるのか、彼女を作れるのか、仲間を作れるのか、孤独でなくなるのか、という次元のことをケアしようとするとベーシック・インカムとシェアリングエコノミーだけでは側面支援しかできない。仮にそれ以上の効果を求めるなら、宮台さんがおっしゃるとおり、これは最終的には文化的なアプローチでしか解決しないでしょう。それこそ撤退戦になってしまうでしょうが……。ただ、こうしたものの産む新しいコミュニティなしには、宮台さんのおっしゃる文化的な「撤退戦」も難しいというのが僕の考えです。その上で、その場にどう関わっていくのか、という問題にアプローチしていくしかないでしょうね。

宮台 ベーシック・インカムとITを用いたシェアリングエコノミーで「感情の劣化に関わる経済要因の制御」をした上で、「〈フェイク父性〉を庇護する母性」をやめさせる文化的アプローチを展開するというのは、僕の戦略でもあります。それは「社会という荒野の中で共同体を生きる」撤退戦で、僕が「風の谷の戦略」と呼んできたものに当たります。 これを「経済的アプローチを前提とした文化的アプローチ」と呼ぶなら、本書末尾のIT経済的な処方箋──中間的なもの──は前段の経済的アプローチに当たり、本書のほぼ全体に渡る「母性に庇護された〈フェイク父性〉」批判は文化的アプローチに当たります。宇野さんによく似た包括的な見立てを前提に、僕もミクロな実践をしているわけです。

僕は熟慮した上でこうした撤退戦しかないと見切りました。撤退戦しかない以上、「撤退戦だ」とする僕の指摘は、批判というより確認です。僕も援交プロジェクトが失敗して沈没した後、マクロな処方箋を諦めて、宇野さんがいう「中間的なもの」、僕の言葉だと「仲間」集団を、可能な場所から作る、という実践を引っさげて復活したのですからね。

マクロな処方箋を諦めるとは、リベラルな制度が処方箋にならないと見切ることに当たります。かつて中間層が分厚かった時代には確かに処方箋になりそうに見えました。座席数が多かったのでヨソ者が座っても頓着しなかったからです。だからこそ、グローバル化で中間層が分解して座席数が不足すれば、「何でお前が座ってるんだ」と叩き出し合うわけです。

これは前編でした話ですが、繰り返しますと、リベラルは「お前が俺でも耐えられるか、耐えられないなら制度を変えろ」と立場の可換性を前提に正義を主張します。でも立場の可換性は、〈見えない外部〉を排除した「一国主義」を前提にしたものです。ところが、グローバル化で〈見えない外部〉が「見える化」してしまった。さてどうなったでしょう。

論理的には、〈見える化した外部〉を(1)努力して包摂する方向と、(2)意図して排除する方向があり得ます。でも現実的には、「座席数の減少」を背景に(1)包摂努力ならぬ(2)意図的排除が、専らになるしかないのです。それは我々が人間だからです。異常でも故障でもありません。「仲間」と「仲間以外」との区別は人間の性(さが)という他ないのですからね。

かくして、普遍的人権を有する人間の平等を主張する〈近代〉が、幻に過ぎない事実が明らかになりました。美学や価値や真の神など〈私〉に於いて多様な個人同士が、誰だって痛いのや苦しいのは嫌という「残酷の回避」を旨として〈公〉のプラットフォームを共有することで、互いに共生するという〈近代〉の理念の絵空事が、バレたということです。

「合意ハードルの高い善=〈私〉と、合意ハードルの低い正=〈公〉」から成り立つ近代が、いっときの例外もなく〈見えない外部〉に依存し、かつそれが〈見える化した外部〉に変じた後は、一カ所の例外もなく〈見える化した外部〉を排除して来た事実こそ、近代が「未規定な母性の庇護下で勘違いしたフェイク父性」であることを示しています。

虚妄の回避には、共生プラットフォームである〈公〉を、合意ハードルの高い「善」に引き上げる他ない。これは論理的問題です。現にローティは「感情教育」を、ハーバーマスやテイラーは〈公〉で活躍する宗教者を、処方箋にします。共通して「損得」を超えた「内から湧く力」で〈公〉を高める試みです。でもナチの悲劇後は危険だとして放棄されたはず。

[ハードルの高い〈私〉と、ハードルの低い〈公〉と、座席数の多さに依存したリベラルな制度]の組に期待するリベラルは所詮、見たくないものを見ない反倫理です。実際には[ハードルの高い〈私〉と、ハードルの高い〈公〉と、座席数が足りなくても成り立つリベラルな制度]の組しかないのです。ならば、規模を諦めた退却戦しかないのです。

宇野 『ズートピア』の欺瞞ですね。ズートピアは肉食動物と草食動物が共存する楽園として描かれていますが、そこに哺乳類以外の動物は一切含まれていない。この作品は米国の多文化主義のプロパガンダ映画で、現在のディズニーにはもはや独自に描くべきテーマがないということを如実に示していますが、同時にアメリカ的な多文化主義の限界も明らかにしてしまっている。

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▲『ズートピア

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