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スポーツは本当に人間形成につながるのか?(体育学者・中澤篤史インタビュー『AmazingでCrazyな日本の部活』第3回)

今朝のメルマガでは、体育学者・中澤篤史さんへの連続インタビュー第3回をお届けします。第2回までは日本と海外の部活事情の違い、そして運動部活動が抱える本質的な問題点について伺ってきましたが、最終回となる今回は、スポーツと地域の関係の再編、そして「スポーツは人間形成につながる」という言説の正否について深掘りしてお話ししていただきました。


▼これまでに配信した記事一覧
体育学者・中澤篤史インタビュー『AmazingでCrazyな日本の部活』第1回:外国にも部活はあるの?

体育学者・中澤篤史インタビュー『AmazingでCrazyな日本の部活』 第2回:「メンバーによる自主的なマネジメント」にこそ部活の価値がある?

▼プロフィール

中澤篤史(なかざわ・あつし)
1979年、大阪府生まれ。東京大学教育学部卒業、東京大学大学院教育学研究科修了、博士(教育学、東京大学)。一橋大学大学院社会学研究科准教授を経て、2016年4月より早稲田大学スポーツ科学学術院准教授。専攻は体育学・スポーツ社会学・社会福祉学。主著は『運動部活動の戦後と現在:なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか』(青弓社、2014)。他に、『Routledge Handbook of Youth Sport』(Routledge、2016、共著)など。

▲中澤篤史『運動部活動の戦後と現在: なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか』青弓社、2014年

◎聞き手・構成:中野慧

■「ハコの空気を読む」だけではなく「ハコそのものをつくる」

――本誌編集長の宇野常寛がテレビの討論番組に呼ばれたときによく、「日本の学校文化は教室という1つのハコの中の空気を読む能力を養成しているだけ。でも、たくさんあるハコのなかから自分に合ったものを複数選んで組み合わせる能力のほうが大事だ」という話をしています。
 それを部活に延長して考えてみると、たとえば自分が野球がやりたいとして、自分の高校の野球部は一つしかなくて、学校に紐付けられているせいで同調圧力や息苦しさがある。もしそうなのであれば、青少年スポーツはもっと学校から地域クラブなどに移行されていっていいはずで、現実にもそういう動きがあると思うのですが、その点についてはいかがでしょうか。

中澤 スポーツの学校から地域への移行は、歴史的には「社会体育化」という言葉で何度か試みられてきましたが、上手くいきませんでした。その後も、「学校スリム化」とか「総合型地域スポーツクラブ」という言葉が出てきて、試みられ続けていますが、うまくいっていません。良くも悪くも、部活はやはり残ったまま。地域にハコがたくさんあって選ぶことができる状況にはなっていませんね。
 宇野さんの仰るように、「ハコを選ぶ能力」は大事だと思いますが、同時に「ハコをつくる能力」も大事だと思います。ハコを選ぼうと思っても、実は自分に合ったハコとか、自分の好きなハコはこの世の中にあんまりない。だったらそれを創っちゃえばいいんじゃないか。つまり部活を創造する。難しいけど、大事なことです。
 野球であれば試合をするには9人必要です。Aさんが「野球をしたい!」と思っても、まずは自分以外に8人を集めなければいけない。その仲間をつくるのが第1段階になります。クラス内で「野球、興味ない?」と声をかけて、「キャッチボールくらいならいいよ」という人が出てきて、だんだん仲間が増えていく。野球を成立させていくために、自分がしたいことをするために、仲間と相談したり協力したりするわけですが、そのプロセスのなかに人生で学ぶべきいろいろなことが入っている。時には子どもの力だけではできないことを、大人がサポートしなければいけない場面も出てくるでしょう。そうやってスポーツを成立させるために子どもが試行錯誤して学んだことは、なかなか汎用性が高そうだなと思います。
 それを外側から、「部活の仕方はこうなんだ!」って決めちゃうと、肝心の自主性そのものが死んでしまう。部活は自主性を育てると言いながら、それで自主性が育つわけがない。そもそも「自主性を育てる」って矛盾した表現じゃないですか? 

――たしかに、そうですね。

中澤 「自主的になれ!」って命令されて、「はい! 自主的になります!」って返事したらもう自主的じゃない。だから、内側から出てくる子どもの気持ちがないと何も始まらないはず。そういう気持ちをいかに活用するかが部活の肝で、それが「ハコをつくる」という創造性の溢れる教育につながる可能性がある。部活の地域移行の話に関連づけると、「学校でやるスポーツは窮屈で地域はバラ色」と単純に想定されがちですけど、実は地域は冷たかったりします。

――それは、どういうことなんですか? 

中澤 たとえば、子どもが一市民として、「野球をやりたい」と思ったとする。ならば大人がそうするように、市民球場に予約しに行かなきゃいけない。すると、「予約が埋まっているので無理です」と断られたり、「まずは来年、地域の会議に出るところから始めてください」と言われたりする。学校を出た瞬間に、子どもは保護されるべき児童・生徒ではなく一市民として扱われてしまう。まだ子どもなのに大人社会のルールに従わなければいけない。それはとても大変で困難なことです。そもそもなぜ子どもが学校に通うのかというと、「一人前の大人」になるための練習をするためです。そういうときこそ、知識も能力もある教師が支援して、子どもが「一人前の大人」になれるように学校が頑張らなきゃいけない。「ハコを選ぶ能力が大事だ」といって窮屈な学校を抜け出してみたはいいものの、自分にあったハコがなかった。その後、「自分に合ったハコをつくってみよう」と子どもが思ったとき、もう一度学校に戻ってハコをつくる練習をする、そんな場所に学校や部活がなればいいと思います。

――ただ、「ハコをつくる」ためには、ある程度の高度な能力が必要になりませんか。

中澤 何が難しいかというと、結局「あれがやりたい」という思いだけではハコは作れないからです。せっかく集めた仲間とケンカしてしまうこともある。そのときにどう指導ができるか。顧問教師はスポーツのルールを知っているだけじゃなくて、人間関係をどうつくるかや、道徳そして市民性をどう育成するか、といった指導力が求められます。それはまさに、一般的に教師に期待されている、子どもを「一人前の大人」に育てるための指導力です。顧問教師に求められる指導力とは、スポーツの経験があるかどうか、だけではありません。教師の一般的な教育的指導力そのものが部活に必要になります。部活を教育のなかで立て直そうとするのであれば、単なるスポーツ知識だけにとどまらないような教師の力量が問われるはずです。

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