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パズーはもう一度冒険に出るべきか?——宮崎駿と高畑勲、ジブリ2大作家の可能性と限界 濱野智史×宇野常寛「〈政治〉と〈文学〉」から「〈市場〉と〈ゲーム〉」へ——『母性のディストピア』をめぐって(2)

10月26日に発売された、宇野常寛の待望の新著『母性のディストピア』。その内容を題材にして、長年の盟友である濱野智史氏と共に日本のこれまでとこれからについて語ります。第2回は宮崎駿と、『母性のディストピア』では扱いきれなかった高畑勲の話題を中心に、ジブリ2大作家の可能性と限界について考察します。(構成:斎藤 岬)
※その他の回はこちら。(第1回、第2回、第3回第4回第5回

異界を覗き込む宮崎作品の可能性

濱野 前回も触れた通り、僕は『母性のディストピア』で取り上げた3人の作家で言うと完全に宮崎駿派だったんですよ。
 特に『天空の城ラピュタ』が最高に好きで。あれは宮崎駿も「ベタベタの冒険活劇でいいじゃないか」と開き直って作っている気がする。『母性のディストピア』で宇野さんは「宮崎駿は『母性的なもの』がないと飛べなくなった」と指摘していましたが、『ラピュタ』はそういう意味でも本当に象徴的ですよね。つまり、パズーはシータがいないと飛べない。確かに僕は子供の頃から思っていたんですよ。「守るべき女の子がいなきゃ、飛ぶ意味なんてない。そして自分にはシータが降りてくることも、ラピュタを見つけることもないな」と(笑)。リスクを追って人類未踏の世界に辿り着くこそ冒険だったわけですが、もはや冒険/探検すべき領域が地球上に残っていないことは、20世紀後半に生まれた人間として、子供でももう分かるじゃないですか。だから、あのベタベタの冒険譚の道具立ての揃い具合が、最高にノスタルジックな夢をみせてくれるし、「バルス!」祭りが未だに盛り上がるのも、そんなものは完全に「嘘」だということをこれみよがしに見せてくれるカタルシスがあるからだと思うんですよね、あのラストシーンに。

▲『天空の城ラピュタ

 ちなみに僕が一番好きなのは、シータとパズーが見張り台の中にいて、ドーラたちがその会話を伝声管越しに聞いているところからのシーン。その後、軍に見つかって攻撃から逃れながら、仲間とはぐれて2人きりでラピュタに行く。本当に男の子のご都合主義的ロマンスでうざったいなあと思うんだけれど、「本当にラピュタがおそろしい島なら、ムスカみたいな連中に渡しちゃいけないんだ」というパズーのセリフをドーラたちが「盗聴」していることによって、ムスカたちとの戦いという冒険の正当性も担保されていて、実に巧みだし、それこそ自分にも「こんな冒険あったらいいなあ」とも思うシーンなんですよ(笑)。
『天空の城ラピュタ』って、最初に空から女の子が降ってくるところからも明らかなように、男の子のご都合主義的ロマンスの集合体でしかない。だから、ラストの後の2人がどうなるかは描けない。描きたくないでしょう。僕も見たくない。あの二人が、シータの出身地であるゴンドアの谷で仮に結婚したって絶対に幸せになれない(笑)。

宇野 絶対にならないよね。シータはパズーを生活保守に調教することしか考えないだろうから。そもそも『天空の城ラピュタ』はやはり諦めの物語でしょう? もう男の子は飛べない、冒険は諦めて畑を耕そう、という結末ですからね。

濱野 飛ぶためにはムスカと同じようにロストテクノロジーを求めるしかない。でも結婚後に飛ぶことを諦められなくて、牧畜とか開墾とかに飽きて冒険に出ようとするパズーの絵があまりにも容易に想像できる。というか、断言しますけど、自分がパズーなら3年で絶対シータと別れますね(笑)。なんの断言だよって感じですけど。

宇野 地上に戻ってからのパズーは「俺は本当は飛行機に乗りたいんだ」と思っているのに、無理やり農業をやらされたり、そのことで夫婦生活もうまくいかなくなったり、そういう人生が待っているわけだよ。

濱野 「あそこから本当の『バルス(崩壊)』が始まるのに」といつも思う。だから宮崎駿っていうのはそういう存在だと薄々わかってるんだけれど、でもアニメだからそれでいいじゃんって僕は思っていたんですよね。今回、宇野さんの著作を読んで、いまさらながら、その開き直りから目を覚まされた感じがあった。

宇野 ああ、家庭を「バルス」ね(笑)。だから、宮崎駿はその未来を乗り越えるためには、やはり飛ぶんじゃなくて「潜る」しかなかった。
 具体的には『となりのトトロ』で彼が切り拓いた世界の延長線上にもっといろいろやれたことがあったんじゃないかってことなんですよね。

▲『となりのトトロ

 宮崎駿が書いた『となりのトトロ』のエンディングテーマの歌詞に「子供のときにだけ あなたに訪れる」というのがあるんだけど、日常の中の異界を覗き込む力を、どうやって大人の世界に拡張していくか。本当はこれが宮崎駿が一番向き合っていくべき問題だったと思うのだけど、『となりのトトロ』の先に進めなかったと思うんですよね。
 あれは「飛ぶ」だけではなくて、日常の中に異界を発見して、そこに「潜る」ことを発見している。ここには『天空の城ラピュタ』で宮崎駿が未練たっぷりに断念したものとは別の可能性があったはずなんだよ。
 やっぱり、『魔女の宅急便』からはまた元の路線に、つまり「飛ぶ」ことに回帰している。あの作品の背景にあるのはバブル期の都市の気分だったわけで、それは要するにあの宮崎駿ですらバブルの狂騒に若干とはいえ肯定性を見出そうとしていた一瞬があった、ということなのだけど。つまり『となりのトトロ』の日本は失われてしまった。だけど、もしかしたら今の都市化された日本にも、人間を飛ばせる力があるのかもしれない、『天空の城ラピュタ』に接続してロストテクノロジーの力で飛ばなくても、つまり失われた近代的な、男性的なロマンティシズムに賭けなくても精神的に豊かに過ごしていく方法があるのかもしれない、というのが『魔女の宅急便』だったんだけど、結局、宮崎駿はあれを自分自身の、つまりあの作品でいうとトンボの物語としては描けずにあくまで理想化された少女、つまりキキの物語としてしか描けなかった。『母性のディストピア』で取り上げた「少女は飛べる/男たちは飛べない」問題ですね。男性というか、自分自身が飛ぶ物語を描こうとすると、自虐たっぷりに豚のコスプレをする(『紅の豚』)か、ナルシスティックにキムタクと同一化(『ハウルの動く城』)するしかなくなっていく。でもそれって結局自己憐憫のようなものの先には進めなかったように思う。

▲『魔女の宅急便

 だから僕は本当は『となりのトトロ』の延長線で何らかの新しい可能性が見い出せていればよかったのにって思っている。
 これは昔、大塚英志さんが書いていたんだけど『となりのトトロ』もその原型の『パンダコパンダ』も、何が異様かって普通だったら最後に異世界の住人と子どもは別れて終わる。異界の住人たちはいつの間にか見えなくなって、少女はちょっと大人になる。『この世界の片隅に』のように妖怪を見る力、異界を覗く力を失ったかわりに、ちょっと大人になって代わりに性的なものに目覚めていく、という通過儀礼的な物語になるのが普通。でも『パンダコパンダ』も『となりのトトロ』はそうならないんだよね。あの話の中でトトロとサツキ、メイの別れは描かれない。

▲『パンダコパンダ

濱野 一切描かれていないですね。そのかわりにエンドロールのアニメでは母親が帰ってきて終わる。そこもまた非常にうまい。

宇野 あの異様さを大塚英志は、近代主義者の立場から批判的に書いているんだけど、僕は逆の感想を持っているんですよ。あれは、サツキとメイがトトロたちと別れないからいい。
 あの時期までの宮崎駿は、あのまま異界を見続けることによって、自身からは既に失なわれてしまっているその力を、なんとかして取り戻したいと思っていたところがあったんだと思う。だからこそ糸井重里の「忘れものを、届けに来ました」というコピーが採用されていたわけでさ。あそこで子どもが異界の住人と別れることで成長するという教科書的な成熟を、彼は信じていなかったはず。
 だから、そういった「もう一つの宮崎駿」を見たかった気もする。宮崎駿的には『となりのトトロ』のアップデートが『千と千尋の神隠し』なんだろうけど、その進化が本当に正しかったのかについては、もっと議論されていいと思う。『千と千尋の神隠し』は「出会い」と「別れ」がある、とてもオーソドックスな成長譚になっていて、そこが逆に物足りないんだよね。

▲『千と千尋の神隠し

濱野 なるほど……。トトロは僕も当然傑作だと思っていましたが、その想像力を伸ばせ、というところまでは僕の想像力が至っていなかった(笑)。トトロは凄すぎるんですよね……。
 ちなみに僕も『千と千尋の神隠し』は全然評価もしていないし、個人的にも全くピンと来る部分のなかった作品ですね。ハクというキャラも好きになれない。

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