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猪子寿之と「人類を前に進めたい」

 来月チームラボの猪子寿之さんと僕との共著『人類を前に進めたい』が発売になる。これは僕のメールマガジンの連載をまとめたもので、この4年の間僕と猪子さんは月に1度、この連載のためにスケジュールの合間を縫って対談を続けてきた。対談はだいたいお互いの近況からはじまる。最近身の回りで起きたこと、世の中を騒がせていること、食べて美味しかったもの、観たり読んだりした「ヤバいもの」……だいたい最初の1時間は雑談で終わってしまう。そして1時間が過ぎたあたりでお互いの同席したスタッフの機嫌が悪くなってくる。猪子さんはスタッフのイライラをまったく意に介さずに「最近鍋に入れてうまかったもの」について延々と話し続けることができるけれど、僕は(こう見えて気を使う人なので)、できない。そして本当は最近買ったドイツの動物フィギュアについて語り倒したいのだけれど、無言のプレッシャーに負けて仕方なく対談の本題に入るように促すことになる。

 対談はだいたい、猪子さんが最近思いついた新作の説明からはじまる。それに対して僕が感想を述べて、そこからしばらく意見を交換する。一段落つくと、今度は既に出来上がった作品や展示会のコンセプトを猪子さんが説明し、また僕が意見を述べる。最後にこの一ヶ月僕が実際に足を運んでみた展示会があれば、その感想を述べてそこから議論する。僕の役目は猪子さんが考えていることの言語化を手伝うことだ。この対話を通して、猪子さんに自分たちの作品の面白さがどういうメカニズムで出来ているかを自覚してもらう。それは作品のステイトメントや、猪子さんのスピーチなどでのチームラボの自己解説を手伝うことになるし、それ以上に作品作りに間接的に貢献することができる。ときには、作品にダメ出しというか、ここが弱いのではないかとか、こうしたらよいのではないかと述べることがある。そしてここがすごいのだけど、猪子さんは僕の指摘に納得した場合は、それが展示中の作品であればすぐにLINEを開いてほとんどその場で現地のスタッフに修正を要求する。告白するが僕の指摘のせいで、徹夜を強いられたラボのスタッフはこの4年間で膨大にいると思う。ただ、それくらい猪子寿之という人間は(ああ見えて)自分の表現を高めることに執着し、命をかけている。そして、僕にとって自分が並走しているという実感がもっとも持てるクリエイターは猪子寿之だ。僕はそのことを、とても誇りに思っている。

 僕と猪子さんが出会ったのは、10年近く前のことだったと思う。その日、堀江貴文さんの誕生パーティーに呼ばれて、どんなものだろうとウキウキとでかけた僕はバカでかい会場でほとんど知り合いを見つけることが出来ずに、ひとりポツンと堀江さんがパフォーマンスで解体した本マグロの赤身寿司を箸でつっついていた。そんな僕にいきなり話しかけてきたのが猪子さんだった。「あ、宇野さんでしょ?」ーー猪子さんに話しかけられたとき、僕は思わず身構えた。どう考えても僕とは別の世界に生きているリア充でオラオラ系の肉食獣が目の前にいたからだ。堀江さんってやっぱりこういう人と付き合っているんだなと、脳内の偏見が爆発した。しかしすぐに、以前「朝まで生テレビ」で見かけた顔だと思いあたった。何かぶっ飛んでいる感じで話していたが、意外と内容は鋭かったのを思い出した。「PLANETS読んでいるよ、マジ面白いね」ーーそれが、僕と猪子さんの出会いだった。

 その後僕と猪子さんは雑誌やテレビの企画で同席することが多くなり、いつの間にかまあ有り体に言えば仲良くなっていった。しかし人間として僕と猪子さんはまったく正反対だった。共通の好きなものはジャンプとガンダムくらいで(これはまあ、同世代の男子はだいたい好きだ)、ほかはまったく合わない。一言で言うと、猪子さんは肉食で僕は草食だ。猪子さんは筋トレが好きで僕はランニングが好きだ。猪子さんはなんだかんだでお酒が大好きだけれど、僕は大嫌いだ。スタッフの何人かと一緒に僕の好きなフルーツアイスキャンディーの専門店に連れて行ったとき、猪子さんだけは頑として食べなかった。僕はクラブミュージックにも阿波踊りにも興味がないけれど、猪子さんは模型にも昆虫採集にも興味がない。一度歌舞伎町のキャバクラに連れ込まれたときは閉口した。しかも、僕が初対面の女子と何を話していいかわからずにもたついていると「宇野さん、キャバクラはチームワークなんだよ、わかってる?」と店を出たあと深夜の歌舞伎町の路上で説教された。そしてこのエピソードを当時担当していた「オールナイトニッポン0」で話したら速攻で発見されてLINEで猛抗議された(意外とエゴサーチ力が高い)。要するに僕と猪子さんは、本当に人間として正反対なのだけど、いや、だからこそ僕たちは奇妙に気が合っているところがあるのは間違いないと思う。

 僕と猪子さんがちゃんと一緒に「仕事」を始めたのは、知り合ってから何年か経ってからだ。ある雑誌の取材で同席したとき猪子さんは僕に、「これからチームラボは世界の中で世界にとって意味があることをやってきたい」と語った。そのとき、作品のコンセプトの言語化を担う批評家が必要だと言われたのだけど、僕はちょっとはぐらかすような対応をしてしまった。当時の僕は猪子さんの友人ではあったけれど、チームラボの展示会に足を運んだこともなく、ろくに作品も観ていない自分にその資格はないと思ったからだ。
 
 けれどもその少し後に、強く誘われて出かけた 2014 年の佐賀展(「チームラボと佐賀巡る!巡り巡って巡る展」)で僕の考えは変わった。それはチームラボにとっては過去最大級の展示で、猪子さんにとっても自分のやりたいことを本格的に形にできた、国内ではたぶん初めての展示だったと思う。1 日かけて、県内に点在する作品を観て回ったとき、チームラボはとんでもないことをやろうとしているのではないかという、ほとんど確信に近い予感がしたのだ。(このときの様子はこの文章にまとまっている

 こうして僕は、批評家としてチームラボについて並走するつもりで考え、書くようになった。チームラボの本格的な海外進出の足がかりとなった 2014 年のニューヨーク展(「teamLab: Ultra Subjective Space」)にも同行して、チームラボが現地の人々にどう受け止められるのかを側で目にしてきた。

 この本の元になったメールマガジンの連載が始まってからは、月に一度収録のために会って、構想中の作品のアイデアを聞いて意見を述べるようになった。新作はなるべく観るようにして、やはり収録で意見を述べた。海外での展覧会にもたびたび同行し、シリコンバレーで、シンガポールで、パリで、上海で、一緒に考えてきた。この本は、そんな僕らの 4 年間の対話の記録だ。

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 今でも思い出すのが、2017年のシンガポールでの夜だ。
 2017年3月12日の夜遅く、僕は出張先の台湾から同じく出張中の猪子さんと合流するためにシンガポールに入った。この年の春にマリーナ・ベイ・サンズにあるチームラボの常設展はリニュアールオープンを控え、前々から同展に誘われていた僕は同行、というか現地で合流することにしたのだ。

 前の夜に学会の打ち上げで話し込んだせいか、その日も少し疲れていた。本当は街中に食事に出ようと思ったのだけれど、その元気はなくホテルに隣接したショッピングモールのフードコートで軽く済ませて、どっとベッドになだれ込んだ。仕事の準備は明日にしてもう寝てしまおう、と思ったとき携帯電話にメッセージが届いた。「いま、仕事終わった」ーーこれは会う流れなのかな、と思いながら「お疲れさま」と返した。すぐに「今何しているの」と尋ねられた。「ホテルの部屋で、だらだらしているよ」と返すと「(自分もシンガポールに)いるよ」と返ってきた。そりゃそうだろう、そういう予定なんだから。猪子さんが僕にこれから会いたがっているのは明らかだったけど、なぜか自分からは誘ってこない。理由はよくわからないけれど、どうやら僕から誘って欲しいと思っているようだった。シンガポールの夜24時過ぎ、中年男性がふたりこれから会う/会わないをさぐりさぐり、ショートメッセージをひたすら往復するという状況が10分ほど続いた。なんで付き合う直前の大学生カップルのようなやり取りをしているのだろうと、正直思った。
 さすがにこの状況は自分が能動的に動いて打開したほうがいいのでは、と考えてメッセージがさらに数往復したあと、僕はこう送った。「もう寝る感じ?」と。彼は私より半日早く現地入りしてこの時間まで仕事をしていたという事情を考慮して、僕はこの表現を選んだ。僕なりに自分から踏み込んだつもりだった。するとすぐに既読がついて、猪子さんからこう返ってきた。「なんでも、よいよー」と。

 おい。じゃあ、なんでそもそもこんな時間にメッセージ送ってきたんだよ。一瞬殴ろうと、思った。

 結局その後合流した僕と猪子さんは、ホテルの彼の部屋で明け方近くまで話し込んだ。いろいろなことを話した。昨年のシリコンバレーでの展覧会のこと、夏に展開したお台場のDMM.PLANETSのこと、年始のロンドン展のこと、このシンガポールのこと。そしてこれらのプロジェクトは一直線につながっているということを。深夜の妙なテンションに引きずられたのかもしれない。勢い余ってプールで泳がないか、と誘われたけれど、それはさすがにやめておいた。

 あの晩、僕たちは概ねこんなことを話していた。いま、世界がグローバリゼーションと情報技術のもたらすボーダレス化に対するアレルギー反応のフェイズに入っている。その前の年(2016年)に起こったふたつの衝撃ーーブレグジットとトランプーーはそれを象徴する出来事だ。だからこそ、チームラボはこのあたらしい「境界のない世界」を擁護したい、その素晴らしさ、心地よさを伝えたい。だからチームラボのアートは少しずつ世界の「境界」が消失する体験を鑑賞者に与えることをコンセプトに発展してきた。ある作品とべつの作品(事物と事物)、鑑賞者と作品(人間と事物)、そして鑑賞者と他の鑑賞者(人間と人間)だ。チームラボのデジタルアートに触れて、まるで自分と世界とが一体化したような体験をしたような気持ちになった人も多いだろう。それこそが、チームラボのデジタルアートのねらいであり、世界に対するメッセージなのだ。だからこそ彼は同年の(ブレグジットの震源地である)ロンドンで「ボーダレス」をコンセプトにした展示を行ったのだし、その翌年に御台場に作り上げた常設展示場にもその名を与えたのだ。

そして、ここで大事なのはこのときに「境界のある世界」に心を置いてきてしまった人々に眉間にシワ寄せて「こうあるべきだ」と主張しても届かないだろう、ということだ。

 この四半世紀でアメリカとベトナムの格差は圧倒的に縮まっているが、シリコンバレーの起業家とラストベルトの自動車工の格差は逆に広がっている。だから、ラストベルトの自動車工は「壁をつくれ」と反グローバリゼーションを掲げるナショナリストを、つまりトランプを支持した。
 冷戦終結から約四半世紀の間に20世紀的な国民国家の集合(インターナショナル)から、世界単一の市場経済(グローバル)へ世界地図を描くべき図法は変化し、この新しい「境界のない世界」は急速に拡大していった。今日の世界においては革命で時の政権を倒しても、ローカルな国民国家の法制度を変えることが関の山だが、情報産業にイノベイティブな商品やサービスを投入することができれば一瞬で世界中の人間の社会生活そのものを変えることができる。21世紀とはグローバルな市場というゲームボードによって世界が一つの平面に統一された時代であり、その主役は国境を超えて活躍するグローバルな情報産業のプレイヤーたちに他ならない。たしかにこのあたらしい「境界のない世界」を生きる彼らにとって、もはや生まれ出た土地が所属する国民国家は、個人の属性を示す無数のタグのひとつに過ぎないだろう。
 だがその一方でこの世界に生きる大半の人々はこのあたらしい「境界のない世界」に投げ込まれてしまったことに気づいていない。彼らの心はいまだに20世紀的な、旧い「境界のある世界」に取り残されている。彼らはまだまだ精神的にも、経済的にもローカルな国民国家という枠組みの保護を必要としているのだ。
 21世紀の今日の世界で相対的に没落しつつあるのは戦後西側諸国の中流層たちだ。彼らの安定は旧第三世界からの搾取の産物であった。だが「境界のない世界」はこの構造を破壊しつつある。だからこそ彼らは「壁を作れ」と訴えるトランプを支持し、「線を引き直す」ブレグジットを選択することで、あたらしい「境界のない世界」に対抗しようとしているのだ。
 それはあたらしい「境界のない世界」の住人たちからすれば愚かな選択なのかもしれない。たとえば彼らはしたり顔でこう述べるだろう。当然のことだけれども「壁」をつくることで、本当にラストベルトの自動車工たちの生活が上向くという保証はどこにもない。むしろあたらしい「境界のない世界」に開かれることではじめて現代における経済成長は可能となり、増えたパイを分け与える余地も生まれるのではないか、と。いま必要なのは、むしろあたらしい「境界のない世界」のもたらす圧倒的な成長とそれに対応したあたらしい再分配の仕組みなのだ、と。
 だが、おそらくこのような彼らの「賢く」「正しい」言説は機能しない。それどころか、彼らのこの「語り口」こそが民主主義というゲームにおけるトランプ的なものの勝利を約束しているのだ。
 このときあたらしい世界の住人たち(グローバルな資本主義のプレイヤー)たちは、無意識のうちにこう述べてしまっている。君たち(ローカルな民主主義のプレイヤー)はもはや世界に素手で触れることはできないのだ、と。世界に革新をもたらし、人類を前に進め、パイそのものを増やすことができるのは自分たちのあたらしいビジネスとテクノロジーであり、民主主義によって国家を操縦し、適切な再分配を求めることは(必要なことかもしれないが)副次的な問題に過ぎないのだ、と。あたらしい世界、「境界のない世界」に生きる自分たちはもはや民主主義のような旧い世界のシステムを必要としていないのだと。この主張が、民主主義というゲーム上で支持されることが果たしてありえるだろうか?

 では、突破口は果たしてどこにあるのか。
 それが文化の力なのだ、とあの夜僕たちは合意した。そしてだから自分たちはここまでやって来たのだ、と猪子はいった。多文化主義もカリフォルニアン・イデオロギーも敗北しつつあるいま、政治的なアプローチも、経済的なアプローチも失敗したいま、「境界のない世界」を擁護しえるのは、もはや文化的アプローチにしかないのだ、と。「正しさ」(政治)や「効率のよさ」(経済)ではなく「楽しさ」や「気持ちよさ」や、わけのわからないもののもつ凄み(文化)の力でしか、新しい世界は広がらないのだ、と。
 世界はいまだにたくさんの境界によって分断されている。しかしチームラボの作り出す空間では、その境界は取り払われている。もし、あたらしい「境界のない世界」に怯えている人も、そこで「境界のない世界」の理想形を疑似体験することができれば、その気持ちよさを、面白さを体感してもらえば、アレルギー反応に加担することもなくなるかもしれない。チームラボのデジタルアートには、これまでとは異なる形で世界に素手で触れる体験を与えるというコンセプトがある。チームラボの作り出す「境界のない世界」の理想形では、人間はただ存在しているだけで、その世界の形成に影響を与えることができる。足を踏み入れ、手を触れれば空間を彩る光が変化し、音の波が波及していく。グローバルな情報産業のプレイヤーになることなど、ほんとうは必要はないのだ。いまはまだ美術館の中でしかそれを実現できていない。けれどやがて、チームラボの作る境界のない(「ボーダレス」な)世界は都市の中に、自然の中に広がっていけたらいい。そこで新しい体験をしてもらうことで、新しい世界を一足先に体感してもらうことで「人類を前に進めたい」。あの夜明け方まで話し込んで、猪子さんは言った。この本のタイトルを決めるとき、猪子さんはとても恥ずかしがった。大それたことを言い過ぎていると、すごく抵抗した。でもあの夜に、正確には明け方に、彼は確かに言ったのだ。人類を前に進めたい、人類を前に進めたい、と


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宇野常寛

宇野常寛 (評論家/「PLANETS」編集長) 連絡先→ wakusei2ndあっとyahoo.co.jp 070-6449-6489 著書に『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』 『母性のディストピア』など。

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