一ヶ月間とはいえ、またあの街で暮らすのは愉快ではなかった。しかし森令子は久しぶりに祖母の住む家に帰った。一、二時間電車とバスに乗れば着く。とはいえ遠い。外的時間より内的時間を経て帰る。坂東川を望んで渡ったことはないが、渡った。
勤めている商社。いつのまにか小さなチームを率いるようになった。大きなクライアントには自ずから携わる。いつからかひとを信じられなくなった。部下に仕事を任せられない性分のまま、自分の能力でチームの成果を補ってきた。自ずから現場にも赴く。今回のクライアントの本社は、かつて学生時代に住んでいた街の臨海部にあった。起業し、たちまち上場を果たした。急成長。若き経営者は森とそう齢がかわらない。巨大なネット通販サイト。本社も倉庫も臨海部に構え、経営者はかつて森の住んでいた祖父母宅近くに豪邸を建てた。彼はたびたびその手腕や、芸能人との華やかなゴシップで世間を賑わせる。そしてあの街を愛していた。地元の野球チームに出資し、スタジアムに企業名を冠した。チームごと買い取るのも時間の問題と囁かれ、森の勤める商社にとっても無視できないクライアントとなった。束の間担当する案件のため、行き来しやすい環境を整えようと、森は祖父母宅でしばらく起居することにした。
当面必要なものをトランクに詰め、祖父母宅についた。とはいえ祖父はすでに亡くなっている。若干認知症が兆す祖母と、近所に住み祖母をサポートしている伯父夫妻がその夜集い、森の帰郷を歓迎して食事会があった。小学五年生から高校三年生までの八年間をこの家で過ごした。この街は好きにはなれないが、祖母や伯父夫妻はとても好きだった。明日からの仕事へ向けて、楽しい食事会だったが、皆からさりげなく尋ねられる結婚についての話題には辟易した。
仕事自体は順調に進んだ。社内や倉庫を視察し、たくさんの会議や取引。成果はあった。すべて合理的だった。森はこの企業の社風を好んだ。いち日の仕事を終え祖母宅に戻ると、空いた時間は街を散歩した。市街地は寂れ、周縁部では陰惨な犯罪が起こるべくして起こっていた。鴫嘴城下にある祖母宅は落ち着いた住宅街だったが、高齢化に伴い空き家が増え、ある晩の帰宅時、路地を横切るハクビシンを見た。街はいつの間にか暗くなっていたが、それがいつからかはわからない。なぜなら森の学生時代も、街はけして明るくは見えなかったからだ。
小学五年生の春、森はこの街の小学校へ転入した。研究者である父がこの街の国立大学に勤めることになったためだった。父方の祖父母宅に住むことになった。母は祖父母との生活を円滑に過ごしながら、この街のすべてと、己の運命を呪った。母はこの街に馴染まず、森にもこの街に馴染まないように、遠回しに示唆した。森は母が好きだったし、母の気持ちは小学校のうちにはすでに、充分理解することとなった。森はこの街の愚かしさをすぐに見て取ったからだ。それはふたつの出来事に由来する。
森が転校してすぐに、学校のレクリエーションがあった。工作の為に家から空き缶を持ってくるように指示があった。森はオハイオ州に住む母方の祖母が送ってくれた食品の缶詰を持って登校したところ、同級生から奇異の眼差しを向けられ、その缶の巨大さから「デカデカマン」という仇名で揶揄された。これがひとつめ。もうひとつは、森と同じ日に転入した福田幸子の件。
福田幸子は愚かだった。かんしゃく持ちで成績も酷く、転入した年の夏を前にして、問題児のレッテルが貼られかけていた。我が子を心配した福田の母は手を打った。七月のある日。福田の誕生日パーティを企画し、クラスの生徒たちに招待状を送ったのだ。
晴れて暑い七月の日曜日。招待状を受け取った生徒たちはみな福田家に集まった。福田の家は古い一軒家だったが、広い庭と芝生があり、幾つかのバーベキュー台が置かれた。規模こそ小さいものの、森は何度か訪れたオハイオを思い出し、同じタイミングで転入してきた福田にはじめて近づいたような気がした。芝生の中でゴムボールが飛び交い長縄跳びやフラフープ遊びに興じ、プレゼント交換が行われる。そのなかで福田の母は大汗をかきながら、鉄板上で肉や焼きそばを搔きまわしては紙皿に盛り、参加者が行き過ぎた遊びで怪我をしないか、娘は楽しんでいるかと、ときおり鋭い視線をはなった。会は夕暮れ時に無事解散した。
帰り道、つかず離れないような固まりとなってみなが帰宅する。その道すがら、招待客は今日の回の不備や、焼きそばが不味かった、汚い家だなどと罵り、交換したプレゼントを川に投げ捨てたりしながら福田と、福田の母を馬鹿にしていた。

それを見て、森はこの街を捨てた。森は森の、そして福田の母の気持ちを完全に理解した。馴染むべきではない。この街に。

小学六年生になる頃、家庭内で、森はこのまま同じ地区の公立中学校に進むか、父の勤める大学の付属校に進むかが議論となった。母は、大学付属校でなくとも、どこかの私立中学に進ませたがったが、結局は父の意向でそのまま地元の公立中学に進んだ。

そこは動物園だった。体育教師が暴力の恐怖で場を収めていた。あまりにも酷かったので、森はこの中学で目立たず不快にならず、父母に報いるためにも数字だけを見ることにした。定期試験でよい成績をとることのみに注力した。馴染まず、されど殺されず。成績には多少の入れ替わりもあったが、森は常に上位にいた。ライバルと目す人間は二人に絞られた。ひとりは宮野。彼も森同様、中学二年の頃、東京から転入してきた。もうひとりは上馬。彼は隣の小学校出身で、いつもヘラヘラとしていた。いつもこの三人で、トップ3の成績を争っていた。体育教師が暴力のみならず、セクシャルハラスメントを犯すさまも、見ないことにした。反体制派は暴力にさらされる。さりとて体制派は体育教師に媚びるはめになる。誕生日以降シュンとしていた福田は、思春期を迎え、醜くなりながらも身体は発育していた。体育教師に豊かな胸を揉ませながら、周囲を見渡し、ときには屋上で金を取りながら生徒に性器を自由にさせていた。体育教師に媚び、生きながらえる。福田が得た勝気も無視し、森はより勉学に励んだ。

やがて森は、県下で一番の公立高校へ進んだ。母は私立校を推したが、説き伏せて公立高校に進んだ。なぜならそこに、宮野も進んだからだった。

高校では、充実した生活を満喫した。宮野とは何もなかったが、はじめて森は、話の合う友人もできた。楽しい高校時代だった。

森は東京の女子大学に入学した。同じタイミングで父は職場を移動し、家族は武蔵野市に移った。そのころから母は機嫌がよくなり、姉妹のような楽しい関係となった。進学した女子大に通ううち、ようやく森は自分と居場所がフィットしてきたと、安堵した。思春期の長い間、その不一致に苦しんでいた。束の間の、アメリカへの留学でその思いはより強くなった。過去は遠ざかって、より広げられているこれからの世界が、嬉かった。

いつも通りかそれ以上に仕事は順調に終わった。経営者からは自宅パーティに招かれた。親しいものだけの小規模な集いで、今回の結果を祝うパーティ。森は臨んだ。祖母の家や、かつての父の勤め先とも近い、栄川区の端。かつて鴫荘と呼ばれた荘園地に建てられた豪邸。

パーティは、小規模とはいえ知った顔がならぶ。みな経済界の顔立て者。挨拶をしながらケータリングの食材を摘み、ワインを飲む。スーツを着た財界人のなか、経営者はラフな格好でテーブルを回り、笑う。いかにも親しい人にしか向けないような笑顔。演出のように見えるのは、会場である自宅広間に飾られた絵画のせいかもしれない。
ベーコン。ホッパー。鷹野。その間に、バスキア。

ひととおりの佳境で経営者から挨拶があり、途中、彼がいま交際している女性がパートナーとして壇上にあがりしなだれ掛かる。それを見てスーツ姿の男の野次「前のおねえちゃんとは別れたんか⁈」
がははがはは。
野次にも動じない女性の笑みを見て、森は思い出した。あの日。本当に芝生が踏みにじられた、あの日の翌日。

福田の誕生パーティは帰り道の罵詈雑言以外、つつがなく終わった。森ももう、終わりたかった。明けた月曜日、参加した生徒たちも公けには白々しい態度で、終わった祭りの余韻のなか、はしゃいでいた。そのとき、教卓が激しく叩かれる音。担任の勝村美千子が、四月以降ずっと引きずっていたヒステリーを爆発させた。
「昨日きみたちはたのしいたんじょうぱーてぃーに笑川さんがよばれてないって、どーして、どーしてって思わないの!えみかわさん立ってわ!怒って!起こってわ?わたしはてっきりみんなよばれてるって福田さん!そう言ったから招待状もだしていいよっていったのになんでえみかわさん呼ばれてないのよ!ねえどうして?お母さんは知ってるのどうな」
勝村はノイローゼとなり二学期からはいなくなった。

森のいた小学校区のなか、坂東川の支流の支流となる泥まみれの川縁に、笑川律子は家畜として鶏を飼っていた。その匂いをさせて登校していた。いまパーティの壇上にいる女は律子そっくりでこちらを見ていた。立たされたときうつむいていた彼女は復讐するように前を向いて経営者のズボンを下ろしフェラチオしながら経営者はわたしのように合理を突き詰めれば馬鹿ばかりに見えるなかで人よりロボットに信用を置くとしたらわたしは人間としての特質はエラーしかないと思い間違えを犯すべくみなさんのまえでエラーの総体たるよくわからない絵画を背景にクソ女にフェラチオさせてだだ漏れるエラーを見せないとあらたなる世紀のビジネスに参与できないという不安もあり、かつてわたしはカッコイイバンドマンだったりというクールな過去もあるんですわ、この街。どうにかしようて手伝ってくれるやつがいます。僕はもともと隣の市で産まれたんですけど、いまや悪そな友人たち黒いTシャツを着て扉でこの空間を閉ざしてくれてるから。

女はよだれを垂らしながらもうしょうがないじゃない時代もあるし時代もあるかられいこちゃんも苦しんだふりしたりわたしに同情してみたりだいたいわたしが何者かなんて目をつむろうてしたりありきたりな様子と思って処理しようとしたりねえあのとき唯一わたしに憐れみの顔をしなかった11さいのあなたはいまどれだけ成長したの?ずっと会いたくて山盛りのおかしなものをこなしていまあなたに会いたくて丁度いい年な気がするのよ年齢なんて気にするあなたじゃないわな楽しもうやせめてよカチカチおまんこちゃんよ材木でビラビラ挟ん

森はもう、帰らないと決めた。幸い、クライアントの株価はあがった。

黒いTシャツの連中は、見境がなかった。とりあえず、壇上の経営者のケツ穴にバールを打ちつけて、キョロキョロした。遠くからゴーサインが出たので、新品のブーツで顔を踏みつけた。これくらいでは、死なない。みなわかっていた。なのでガッカリした。
経営者の死は、ホッパーや鷹野の絵が安く売られかねないチャンスだったからだ。ベーコンは重すぎる。バスキアなんてゴミ屑だ。

次は誰だ?次はとりあえず、壇上にいる女を担ぎ上げよう。血塗れのパトロンをへらへら見てる様は、ことによっちゃあ金になるぜ。誰か物語を、書けよ。そこのおまえさん、記者かい。よく見りゃかわいい顔してるな。クロンボの血か、閉まった、材木みたいな…閉じて…

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