彼が人目に姿を現していたのもほんの数年で、それも日中、限られた小中学校周辺、住宅街の路地のみだった。そのためある地区の子供たち以外は、あまり彼を知らなかった。日に焼けた肌。痩せ硬ばった皮膚に、川のような皺がはしる。彫りの深い顔。あつまった皺は落ち窪み、溜まった淵に切り拓かれた、沼のように濁った眼。焦点はたえず合わない。常にフラフラと、何かを探している曖昧な眼差し。まばたきの度に濃い睫毛が音を立てるようだ。その下に逞しい鼻が胡座をかいて、苦しげな呼吸のたびに鼻毛を揺らす。薄く酷薄な印象の唇は常にだらしなく開かれ、ぽっかりと真っ黒い口腔が剥き出す。下顎から生える歯は、二、三本。赤ん坊の糞のような黄色。歯は、たまに見え隠れするが、垂れ落ちる涎を吸い込むときの邪魔になって、所在ない。涎を留めるべく結んだ口から、なお漏れてしまう独り言は、祈りの言葉に酷似していた。乾いた泥に塗れたニット帽から、白髪混じりの長髪が溢れる。夏冬つねに羽織るカーキ色のコートは所々脂染み、固まった布地が暗い影を落とす。穴の空いたチャコールのズボンと黒い靴。ズボンの裂けた穴から覗き見える脚は垢染みて細い。体毛は布地にこすれて薄く散り、冬場は余計に寒々しい印象を与える。靴は驚くほど小さい。靴を形作っている金属片と黒革のみが手入れを施され、光る。
彼のあらわれる場所は決まっていた。
こどものいる場所。
小学生たちが遊ぶ路上、彼はリヤカーを引いて通る。アスファルト。チョークで引かれた遊技場。善悪もつかず、いたずら盛りの子供たち。遊びを中断するように走る自動車に、彼らは爆竹を踏ませてはしゃぐ。しかし、彼が通るときは道の端に寄った。彼の引く年季の入ったリヤカーはガタガタと不安定で、満載に空き缶や、袋に入った得体のしれないものを積み、いかにも重たい。こどもたちはおそれた。近くの教会の掲示板に描かれたモーゼを思いだし、みな道を空ける。
またあるとき、彼は古い自転車に乗り、鴫嘴城下の中学校へあらわれる。後輪部の荷台に灰色のラジオをぶら下げ、スピーカーを鳴らす。ハンドルさばきの軽快さが、彼の年齢を余計不明にした。まだ部活動が行われている夕暮れ前の時間帯、彼は颯爽と校内を走る。ラジオからはスポーツ中継や、夕方のニュースが流れる。女生徒は、恐怖と軽蔑、好奇心や世界への顕示欲が入り混じった嬌声をあげ、校舎内に身を潜める。
彼は変なおじさんだが、とりあえずは無害な存在として、捨て置かれていた。
やがて、数年続いたおじさんの徘徊は終わりを告げる。さすがに彼の行動は街の大人たちに浸透し、不安の限界にまで達した。ある日いつも通り中学校を周遊しているおり、ジャージ姿の体育教師に追われた。胸ぐらをつかまれ倒されたのちに激しい怒号を浴びる。体育教師は街の大人たちの不安を大義名分として、楽しんだ。つまり、ひととおりの制裁のあと、物陰に彼を引きずり本格的に自慢の肉体を行使した。彼が立てなくなるまで殴り、自転車を破壊し、まとめて校門の外へ投げ捨てた。体育教師は正義を齎したと、満足気に職員室へ戻った。学年主任の勝村は「程々にね」と苦笑いする。
おじさんは殴られながら、ずっと押し黙っていた。大相撲の解説のみ、ラジオから弱々しく響く。この日より、彼を見かけなくなった。噂がひろまり、市内の小中学校は不審者への警戒態勢をしき、放課後固く門を閉ざすようになった。とはいえ、体育教師の暴力でおじさんはショック死したと結論され、笑い話になった。おかしな人が死ぬことは、笑いに繋がり、消費され、忘れられた。平和。おじさんが住んでいるといわれた川沿いの沼地は立ち退きが進み、いつしか彼の家(らしき小屋)も朽ち果てていった。錆び、腐ってゆくリヤカーや、フレームの歪んだ自転車は捨て置かれていた。ボール紙で誂えていた表札は風化し、マジックで殴り書かれた「柴」という文字は消えた。一帯は整備され、川はアスファルトに埋まり暗渠となった。まだ世紀が代わる前の出来事だ。

およそ二十年の月日が流れていた。はじめに気づいたのは木下だった。父から継いだパチンコ店の経営にも行き詰まり、暇つぶしに向かった異業種交流会。すでにこの街の夜を支配しつつある男が、この日やってくるらしい。木下が訪れるバーやラウンジは、悉くその男のものだった。この街の新たな力。宴もたけなわに解け、この街の顔役たちも酔いはじめる。
昵懇になろうとその男に近づいたとき、木下は気づいた。その顔はかつて、鴫嘴中学校を自転車で走り回っていた、あの乞食と同じものだった。ただし彼はずっと若返っていた。木下とほぼ同世代にみえる。のみならず、すべてにおいて洗練されていた。渡された名刺には、取り壊され、風化したあの家の表札とは違う苗字が書かれていた。
木下は彼と話した。酒に酔った木下は、小中学校時代によく見かけた人があなたにそっくりだと伝えた。それは少なからず、親しみも含めた世間話だった。その話題をかわきりに、木下は、彼と友人になれればと願った。

翌日木下は、真っ暗な見知らぬ場所で目を覚ました。木下は目を閉じ、遺された娘に愛を伝えた。終わりは見えた。しくじった。なぜなら、暗闇にまみえるような黒いTシャツを着た屈強な男たちが、ふしぎな形の金属を持って、ゆっくり向かってきたからだ。

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うろうろ

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