栄光の我が、クレインズ

アラームが鳴るまえに、目が醒めた。上半身を起こす。こわばった背を立たせ、肩を支点に腕を振る。その勢いで、ベッド脇の小窓に掛かるカーテンを開く。光が漏れる。向かいの屋並み。昨夜までの雨に道は濃く濡れているが、空は青い。暗い雲のないことを認めたとき、出し抜けにアラームが鳴る。すぐに切る。隣のベッドで眠る妻を起こさないように。

うっすらと寝汗をかいていたが、シャワーは浴びない。昨晩風呂に入ったし、試合後にはシャワーを浴びるだろうから、いまはシャワーを浴びず、静かにベッドから這い出てまっさらな肌着を着なおすに留める。
肌着とパンツのみの体型がクローゼットの鏡に映る。腹がでて、酒に浮腫んだ顔。掻き消すようにユニフォームを手に取る。
アンダーシャツとグレイの上着を着る。ソックスを履き、グレイのズボンに足を通す。ゆっくりとひとつずつ、革ベルトをベルト通しに差し込み、上着と共にきつめに搾る。腹の肉が溢れるが、無視してバックルを嵌める。下から上へ股間のチャックを閉じ、仕上げにスカイブルーの帽子をかぶる。

野球帽には太く「c」という刺繍が施されている。青地のなか、白い「c」のロゴ。
クレインズの「c」
スカイブルーとグレイが、チームの基調カラーだ。

寝室をでて、子ども部屋の扉を一瞥する。ひと段とばしに階段を降りて階下へゆく。
一晩誰もいなかった台所の淀んだ空気をかき回すように、簡単な朝食を作る。冷蔵庫のなかのハムや卵を、冷たいパンに挟んで食べて、冷えた牛乳で流し込む。

奥の部屋にいる義父はもう起きている。ささやかにラジオの音が漏れているから、わかる。けれど特に挨拶はしない。それでいいんだ。俺は義父が好きだから。納戸からバットやグローブを出し、スパイクを布の袋に突っ込む。
家を出る。鍵をかける。五月の紫外線は強い。きっと肌が焼ける。

4-3。勝った。小学校の校庭がメインスタジアム。我がクレインズは強い。シティズの1番打者、八百屋兼サード市川は若い世代で、彼を筆頭にシティズも力を盛り返しているが、サヨナラ勝ちをしたのは我がクレインズ。最期のランナーを迎え入れて、みんなでホームベースにキスをした。辛勝。市川にはふたつ盗塁された。課題ではある。なぜか、市川もホームベースにキスをしていた。拝むように、祈るように。
午後からここではタートルス対サンズの試合が始まる。みなで白線を引き直し、マウンドを整える。忘れ物のないようベンチを確認して、シティズの連中と別れる。握手とともに。

試合後、いつもの中華屋へ。帽子のなかの髪は蒸れている。すこしづつ髪が抜けてゆく。中華屋も蒸れている。滑る床。コンロ。火。ヤニ染みたメニュー表。古びた漫画本。水着のポスターが、勝利を祝う女神。

瓶ビールを開ける。中華料理が並ぶ。誰かが八角の香りに鼻をつまみ、誰かが自分のために天津飯をひとつ、と叫ぶ。

チームの古株のふたりが場を仕切り、今日の試合を振り返る。慰労ベースの反省会。

ピッチャーの大川。ちいさな会社の社長。アランドロン似のハンサムで、リーダーシップを発揮する。速球派。ちいさなモーションで、速い球を投げる。
ショートの児玉。牛乳屋。小柄で俊敏。グローブ裁きが上手い。いつも早朝俺の家に牛乳を届けるが、挨拶もソコソコに軽トラを吹かし駆けてゆく。

それぞれの生活がプレイスタイルにあらわれる。ふたりは、あらたに入った新人選手に怪気炎をあげる。顔をビールで赤らめて、今期リーグの戦略を練る。自分と同じのポジションの後継者にしなだれかかり、隠し球の秘技を伝えようと努める。

「タカちゃん、なんか言ってよ」
酒に弱い俺は一杯のビールで酔っていた。
タカちゃん。
それは、このチームでの俺の名。
大川や児玉と同じく、古株になった俺の愛称。
タカちゃんなんてここでしか呼ばれないけど、俺はタカちゃんであり、クレインズのファーストを守る、四番バッター。
俺は内野からも外野からも力一杯投げられる、グレープフルーツみたいな大きさのソフトボールを、どうにかファーストミットのなかに納める。そんなふうに返答する。

「今期こそ優勝しようぜ」

グレープフルーツみたいなソフトボールは赤ちゃんの頭みたいに柔らかく手に余り、何処かへ簡単にイレギュラーしちゃうから、俺はファーストミットを大切に磨いて。思いっ切り開いて。速いゴロが来たら、地面に垂直にしっかり、壁のように立てて。どこにもいかないように。たっぷりとしたグレープフルーツの、果肉や果汁をすこしも漏らさないように。大切に。そうしてミットに入ったボールはそこが終点だから、俺は澄ました顔でファールラインの外に、そっと放らなくてはいけない……ダイヤモンドの外へ……

「なあ、今期こそ、優勝しようぜ」

家に帰る。日曜日の太陽はゆるやかに沈み、すでに妻は月曜日への準備に余念がない。
シャワーを浴びる前に、ほんの一瞬、子どもへ、このユニフォーム、クレインズの「c」のロゴを見てもらいたい。俺は「お父さん」だけれど「タカちゃん」でもある、その余韻を見てもらいたくて子ども部屋をノックする。
息子は鬱陶しそうに扉を開けて、なにを話せばいいか俺はわからない。

「今日は5打数2安打だったよ」

3割超えたら上等なんだよ、きっと、充分に

静かに閉まる子ども部屋の扉を見つめてから寝室へ行き、小窓のカーテンをしめてユニフォームを脱ぐ。俺は「タカちゃん」から全裸のお父さんになる。シャワーを浴びる。妻は、「お母さん」ではない呼び名があるのだろうか。俯いて、薄くなった頭頂部に湯を当てる。ひどく熱い刺激で、また、またもや毛が、生えるだろうか?俺のホームベースは、一体どこにあるのだろうか?

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