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面倒くさがりのヘソまがり

 昨日、家事ヘルパーさんにつくってもらった「アジの南蛮漬け」がすこぶる旨くて、その感動をnoteへ揚げようと思ったら、ひとつの「?」が心に居座って動かなくなってしまった。

 日曜の午後、翌日の食材の買い出しへガラケーの登録名「マッサージ菩薩」くんと、近所のスーパーまで足を運んだ(ぼくは電動車いすだから、「車輪を進めた」なんて表現すると文学的で、事実にも即しているのかな)。

 いつものように、献立なんかは後まわしにして目についたものを適当にカゴへ入れていく(実際はマッサージ菩薩くんがぼくの言葉に従って、入れてくれている。これから先は、面倒くさいので頁のタイトルと写真を想像しながら、お読みください)。

 とっかかりに、ぼくの心を惹きつけたのは玄関を入ってすぐに並べられていた洋物野菜のコーナーの「赤ピーマン」だった。すぐ下段には「黄ピーマン」が同じレイアウトで置かれていた。
 ぼくは広島カープファンでもないのに、ただただ、あの瞬間は「赤ピーマンな気分」だった。

 それから、食材がそろったところで、昼食用のサンドイッチと夕食用の「牛タン弁当」をカゴに入れて、レジに並んだ。
 日曜日は、お気に入りの店員Yさんはお休みなので、玄関に近いいちばん左の列で会計を待つ。
 それにしても、このスーパーはコスパが高い。「牛タン弁当」は、ワンコインとは思えないジューシーな牛タンが白ごはんにたっぷり乗せられていて、ボリューム感満点だった。

 相変わらず、なかなか本題までたどり着かない。
食いしん坊だから、仕方がないか。

 と言いながら、唐突にテーマに入る。

 ぼくの心に居座った「?」とは、赤ピーマンと黄ピーマンの違いだった。
 もともと、ぼくには食材に関わる好き嫌いがほとんどない。
けれど、TPOに合わせたメニューの区別はあって、朝早くから夜遅くまで外出中心だったビフォアコロナの生活スタイルの燃え殻のような習慣で、午前中に仕度する夕食は煮込みものが多かったり(揚げたてが食べられないから)、その反動で大衆食堂へ行っても揚げ物ばかり頼んだりしていた。
 だから、お浸しや酢のものなどは家で食べるもののカテゴリーに入っていたし、サラダ系は外で味わうように必然的になっていた。
 ということで、外食といっても一週間か十日に一回ぐらいだったし、大衆食堂で洋物野菜はあまり出てこないし、そのエリアには疎かったのだった。

 ここまで書き進めれば、いまの日本人のほとんどはチャッチャとネットで赤ピーマンと黄ピーマンの違いぐらいは調べているだろう。
 ところが、ぼくの気は進まない。
 「進まない」どころか、「抗おう」とさえしているみたいだ。

 (コメント乱入:いま、目がかすんできたので、ヘルパーさんに拭いてもらって、モニターの右隅の文字数を見たら1111だった。何か、いいことありそうな・・・)

 noteへ投稿しはじめてから、ひとつの強迫観念にとらわれながら、割りきってあきらめようとしていることがある。

 ほとんど引きこもり状態になって書きつづけていると、どこかで同じ内容を書いたのではないか・・・?という胸さわぎが起こることがある。
 かなり広範囲な内容であっても、特に日常のアレコレとなると、行動範囲が限られているだけに、どうしても似かよってしまうことは避けられない。
 いまのところは、コレで儲けようなどとは考えていないから、そこまでこだわらなくてもツラツラと好きなように書けばいいのに、どこかひっかかってしまう。

 話をもどす。

 しつこいぐらい、ぼくの暮らしのあちらこちらに散乱している「面倒くささ」については、ここに取り上げてきた。
その「面倒くささ」のある部分は、障害のない人だけではなく、障害のある人にも解りにくいエリアのような気がするからだ。
 言い換えれば、とても個人の感覚に近いものだと思えるので、あるカテゴリーをひとくくりにすることの怖さを実感するぼくは、その「解りにくさ」を伝えたくて、自分を奮い立たせようとしているのかもしれない。

 赤ピーマンと黄ピーマンの違いを検索することが、なぜ、そんなに「面倒くさく」感じてしまうのか。「解りにくい」理由とは何なのか。

 ぼくの手足は、思いのままには動かない。それどころか、意思とは逆に動いてしまう。だから、ぼくの意思に基づく行動は、それをお願いする友人やヘルパーさんたちが言葉を介して進めていく。
 たとえば、文章をつくるときだと(セッティングなどは省略して)、
①<ぼく>頭の中の文章を言葉で伝える。
②<入力者>言葉を聴き取り、パソコンに打ち込む。
③<ぼく>パソコンと接続されたタブレットを見ながら、チェックする。
 (言語障害があるので、聴き間違えたり、言い間違えたり、ボケが
  はじまって文章の構成がおかしかったり、なかなかややこしい)
④<ぼく>書きあがったら、入力者に指示しながら再チェック。
 こまかく書きだせば、その都度、平仮名か、片仮名か、漢字かなどを選んだり、チェックもいくつかの段落ごとに行なったりしている。

 そんな中で、お願いすることに遠慮があるかというと、かなりその割合は低い。
これもよく書いているように、パソコンが得意な人やぼくの文章を楽しんでもらっている人を選んでいるので、ほとんど「仕事感」なくおつき合いしてもらっている。
 ほんとうに、そこはありがたい。

 それでは、何が「面倒くささ」で幅をきかせているかというと、その行程の複雑さと脳が指令した信号をダイレクトに自力で実現できないもどかしさだと思う。
 きっと、「障害の受容」ができていないとか言われそうだけど、歯がゆいものはハガユイ。
 同じ時間を費やしても、音声入力などでダイレクトに行動に移せればずいぶんストレスは違ってくるのかもしれない。

 障害者関係の機器は需要が低いので、ぼくみたいな凡人が手を出せるまでコストは下がらないらしい。

 さて、「面倒くささ」と並べてタイトルにあげた「ヘソまがり」について。

 ぼくは、人に恵まれて生きてこられた。
 いまのぼくに影響をあたえた多くの人たちの価値観によって、内面が形づくられていると言っていいだろう。
 もっとベタに書くと、たくさん「旨いもん」にもめぐり逢えたし、毎日の暮らしと同化してしまうほどの唄とミュージシャンの人たちとのつながりも生まれた。
 
 いつも、ぼくのそばには誰かがいてくれた。だから、ステキなものにいっぱい出逢えた。

 そんなぼくは想う。
 ぼく自身の感覚を大切にしたいと。
 簡単に情報を手に入れて、知ったかぶりをしたくはないと。
 知らなかったことで得られていたあたたかさと、
 知ってしまったことで、失ったものの大きさと、
 そのあとにやってくる虚しさと。

 といいながら、ネットでの購入も普通になったし、ラジコで出逢った沖縄の番組「ミュージックシャワー++」は友だちのような存在になったし、noteへもこんなに投稿するようになったし、矛盾だらけの・・・。

 コロナで情報が錯綜したり、いろいろな場所で炎上しているのを見聞きしたりしていると、自分が立つ場所の大切さを実感するようになった。

 ぼくは「一人ひとり」にこだわりながら暮らし、いろいろなつながりをひろげていきたいと思ってきた。
 けれど、「一人ひとり」だけでは立ちいかない世の中になったと思う。
「一人ひとりの違いを認めあえる寄り合い」のようなおつき合いがあちらこちらで生まれれば、暮らしやすくなるのではないだろうか。

 「寄り合い」、ぼくには思い出深い響きを持っている。
「寄り合い」については、いつになるかわからないけれど、かならず「友部さんのこと」で触れることになるだろう。

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