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Aさんの戦争体験

 天皇代替わりの奉祝ムードの中で、ぼくはすこし割りきれない気持ちで毎日を過ごしていた。

 いまから三十年ほど前、ぼくの生活していた施設を上皇と上皇后が慰問された(もちろん、当時は平成天皇と皇后だったが)。一週間前からお二人が歩かれる廊下には赤絨毯が敷かれ、「テロ防止」という理由で建物の周囲の草木は見事に刈りこまれた。

 ひとつ往生した記憶がある。
 それほど広くない廊下の中央の赤絨毯を絶対に踏んではいけないという。 両サイドのスペースは、ぼくの電動車いすがギリギリ通れる程度しかなかった。
 かなりピリピリしながら移動しなければならなかったおかげで、これをきっかけに確実に運転は上達した。

 いまから30年ほど前といえば、ぼくの生活していた施設の半分ぐらいの障害者は、第二次世界対戦をくぐり抜けてきた世代だった。お二人を迎える入居者の表情は、明と暗に見事なまでに分かれた。
 戦争を体験した人たちの半分ほどは「天皇が来られる」ことを本当に楽しみにして、そのことが話題に出るだけでも涙を流す人もいた。
 その一方で、表情を曇らせる人や、戦時中の障害者が置かれていた状況を語りながら行き場のない怒りを言葉にする人もいた。
  特別な話だったのだろうか?
 Aさんはとても賢い人だった。還暦を過ぎても探究心は衰えることなく、当時すこしずつ出はじめていたパソコンをすぐに購入し、施設内の自治活動の書類作成などに活用していた。
 人柄も温厚だった。施設に暮らして二十年あまり過ぎても、しっかり残る東北なまりと柔和な視線は、入居者とスタッフの立場をこえて幅広い信頼を得る存在だった。

 慰問の日が近づくにつれ、彼の表情は曇っていった。
 若い女性スタッフの胸元に手が触れると、「わざとじゃないよ」と必死に打ち消すAさんは、ぼくよりも三十歳ぐらい年上とはいえ、失礼ながらかわいらしかった。
 しかし、あまり不必要なことを語る人ではなかった。

 ある日、ぼくとAさんは将棋を指していた。彼の曇った表情が気になったので、思いきって訊ねてみた。

 彼は、国民学校(現在の小学校)時代の話を穏やかに語りはじめた。
 お母さんは、彼をおぶって三~四キロの山道を雪の日も、カンカン照りの日も学校へ通い続けてくれたという。

 すこし遠くを見ながら「あのころはたのしかったよ」と、ゆっくり記憶をたどっていく。
「放課後なんかさぁ、わたしの家の縁側に近所の友達が集まってきてさぁ、五目並べとか、将棋とかやるんだぁ」
「毎日、たのしかったよ」

すこし間をおいて、彼はまた話しはじめた。
「でもさあ、辛いこともあったんだよ」
ちょっと視線を落としてから、
「一週間に一度、軍事教練の時間があったんだ」
「近くの部隊から兵隊が来て、竹やりの突き方とかほふく前進を教えたりするんだ」
「わたしは地べたに座っているしかできないだろ。いつも首根っこつかまれてさ、みんなの前に引きずり出されるんだ」
「それから『非国民』とか『役立たず』とか怒鳴られて、鉄のクツで踏まれたり、竹やりでつつかれたりしたんだよ」
「痛いのはいくらでも我慢できたけど、みんなが見ていることがいちばん辛かったんだ」

 あの話を聴いてから、30年近く経つ。
ぼくは、ゆっくりとゆっくりと語ってくれたAさんの幾重もの感情を静かに抑えた表情が忘れられない。
  もし、ぼくが兵隊だったら…
 彼の体験は同じような障害を持つぼくにとって、とてもリアルなものだった。
もし、自分がそこにいたらと思うと、底知れない恐怖を感じたし、きっと学校へ通うことを拒んだに違いない。
あのとき、ぼくはそこまでしか考えられなかった。

 二千一五年、それまでの専守防衛を大きく転換させる安全保障法案が国会で審議され、日本も同盟国とともに参戦できるようになってしまった。
 そして、社会状況の転機と重なるように、彼から聴いた戦争体験の記憶がよみがえり、ぼくの意識のなかにとても難解な問いかけが湧き起こった。
 
 最初、ぼんやり国会中継を眺めていて、彼の穏やかな表情が浮かび、あの戦争体験を聴いている情景が鮮明に浮かび上がった。
そして、問いかけへとつながる。

「もし、ぼくが兵隊だったら…?」

ぼくは、向き合いたくなかった。
「障害」を理由に、被害者のままで終わらせたかった。自分自身の弱さから眼を背けたかった。
 けれど、どこまでも「もし、自分が兵隊だったら」という問いかけは、頭から放れずぼくを苦しめた。

 理由は忘れた。ぼくは、逃げることをやめて答えを探すことにした。
 自分自身の保身、戦前の教育、家族との関係、社会を支配する空気、考えれば考えるほど答えはぼくの意志とかけ離れていった。
 日々、まわりに流されやすい自分がいる。他人の顔色を伺う自分がいる。常識を信じこむ自分がいる。

 結論はひとつだった。
地べたに座ることしかできない彼がいたら、罵倒するに違いない。鉄靴で踏みつけるに違いない。その行為が正義と信じていたかもしれない。組織の縦関係や他人の視線に怯えての結果かもしれない。肉親たちを気遣ってのことかもしれない。
 ぼくは落ち込んだ。これまで、ぼくに影響を与えた多くの人たちに申し訳なかった。

 けれど、個人の問題にかぎっていいのだろうか。自分を正当化するつもりはない。
 だが、同じ時代に生きている一人ひとりに、この問いを投げかければ、彼を守る自信があるという答えがどれほど返ってくるだろうか?
  知らないうちに
 五年ほど前から、小中学校の雰囲気が確実に変わってきた。
電動車いすに乗っているということで、講演に呼ばれることがある。
すくなくとも七~八年前なら、子どもたちと先生がガヤガヤと楽しそうに体育館に入ってくる光景が普通だった。「並びなさい」の声も穏やかだった。

 いまは違う。どこの学校でも、若い先生が寸分なく子どもたちを整列させようとする。すこしでも騒ぐと「指導」が入る。とても威圧的だ。
子どもたちに「背筋を伸ばして聴くように」と、若い先生は厳しく指導する。
本当にぼくの言葉が心に届くのだろうかと思ってしまう。体調が悪い子どもがいたら、我慢してよい姿勢を保たなければならないのだろうか。
楽しい話もやりづらくなる。
 
思い返してみると、ぼく自身も何度か威圧的に指導されたことがある。心の動きは停止した。果てしなく重たい空白が大きな塊となり、内面だけではなく全身を支配した。
そうなれば、もう「指導」に従うしか選択肢はない。

 ぼくが、学校現場で、先生と子どもたちと一緒に過ごす時間はかぎられている。
先生と子どもたちとの関係はかぎりなく様々で、柔軟なものなのかもしれない。
 集団をひとくくりにすることほど、誤解や差別を生み出す可能性が高くなるとすれば、本当は危惧にすぎない場合が多いのかもしれない。

 ただ、同じ状況が何度か繰り返されると、すぐに「日常」となり「常識」という動かしがたいものに変化してしまう。
 二千一九年秋~冬にかけて、ぼくが遭遇した先生と子どもたちとのあの情景と関係性は、偶然の重なりでしかなかったのだろうか。
考えることが苦手な子どもたちが増えていくのだろうか。

 ぼくの暮らすまちでは、「ともに学ぶ」という障害のある子と障害のない子が同じ教室で学ぶことを原点にして、四十年以上前から教育が進められてきた。
「みんなちがってみんないい」
「みんな」の中に、障害のないこどもは入らないのだろうか。

二千一九年十一月二十三日(新嘗祭=皇室行事)、ご近所の商店街のすべての軒先に日の丸が掲げられた。
圧倒されてしまった。これから、あの日がくると当然の光景になってしまうのだろうか。ぼくもなにも想わなくなるのだろうか。いや、そうなるに違いない。

あれだけ全身が震えるほど拒否反応を示していたあちらこちらの防犯カメラの目が、いつのまにか気にならなくなっている。コロナの中でいろいろな手続きに際して、あれほどうっとうしかったマイナンバーを「もっと活用したらいいのに」などとつぶやくぼくがいる。
 
こうして、人々は独裁者を創りだしていくのだろうか。

本当に、戦争に近づいているのかもしれない。戦争は起こらなくても、一人ひとりが管理され、マニュアル通りにしか生きることができない世の中になろうとしているのではないか。

 ぼくができることは、書くことしかないのだろうか。
Aさんは「それで充分だよ」と頷くだろう。
 でも、日常のなかで受け容れてしまったことも含めて、どこかでこだわり続けたいと思う。共感できる人はすくなくても、ひとりずつ思いを広げていきたい。

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