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鮎との再会

 いきなりゴタクを並べたくなった。
「鮎との再会」とタイトルをつけたけれど、天然か養殖かは別にして、一度食べたものが輪廻して、またぼくの胃袋へ下りてゆくはずがない。
 それでも、このままで突っ走ることにする。

 一年半近く前から自宅での生活が中心になり、常連の魚屋へもなかなか顔を出せなくなった。
まちの人たちに手助けをお願いすることの意外な気軽さを実感してから、毎日の献立は市場で好物や興味を惹かれるものを購入して、現場で決めるようになっていた。
 ヘルパーさんとうまく待ち合わせられなくて、せっかく手に入れたものを食べられなくしてしまったこともあったけれど。

 だから、ここのところの自宅での生活では、ヘルパーさんから買い物を訊ねられても、献立を聴かれても十種類程度の範囲でグルグルまわすしか仕方がなかった。

 ある日、しばらく鮎をいただいていないことに気づいた。
少なくとも、引きこもっていた昨年は、ぼくの献立の引き出しから完璧に姿を消していた。

 梅雨の季節に入った。かならず魚屋には、鮎が並んでいるはずだ。
そう思うと、いてもたってもいられなくなる。
 さっそく、ヘルパーさんに買いに行ってもらった。
もちろん、シンプルに塩焼きをお願いした。

 ぼくが生まれた福知山あたりでは鮎は神の魚と謂われ、いただくときには骨一本も残してはならないと、祖母から教えられた。

 とはいえ、大ぶりのものになると、骨は相当に厄介になる。
歳を取って優柔不断さが増してきたぼくも、食べることに関しては頑固になってしまう。
 むせることがないか案じるヘルパーさんを横目で見ながら、予定通り頭からまるかぶりさせてもらった。

 すこしレアぎみの焼き加減で、内臓の苦みがたまらなかった。
身はほろほろと口の中でくずれていった。

 副菜のナスとニシンの煮物もなつかしい味だった。
祖母の得意料理のひとつだったから。

 鮎といえば、京都市内の障害児施設で生活していたころ、週末に外泊させてもらっていたぼくは、梅雨の時期になると国道沿いの駅弁屋で鮎ずしを買ってもらうのが楽しみだった。

 施設から家まで、二時間あまりかかった。
酢でしめられた鮎は、家族といっしょに暮らせない事情を察していたおとなびたぼくの気持ちに似合った味だったのかもしれない。
 適当に脇道へ入り、景色のよい場所に車を停め、おやじが助手席のぼくの口へポンポンと放りこんでくれた。

 そういえば、ドリフターズのカセットテープをよく聴きながら帰った。
車の中でのおやじとの話題は、いつもプロ野球のことだった。おやじは阪神ファンだったから、巨人ファンのぼくとはうまくかみ合わなくて、あまり盛りあがらなかったけれど。

 鮎の塩焼きをまるかぶりすると、四~五歳のころ祖母にせがんで連れていってもらった由良川の土手をぼんやりと思い出す。

 それは、昔を恋しがる気持ちが意識の底で働いているのかもしれない。
 あのころ、町へ出るときに乗っていた乳母車からの目線ではなく、空から見下ろしたような広い風景だから。

 秋になったら、子持ち鮎の甘露煮も楽しみだ。
もう鮎を忘れない。

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