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かたむいた長屋から

 目が覚めると、もう泊まりと朝のヘルパーさんとの交代時間だった。ゴールデンウィークのころだったので、窓際のベッドには日が差しこんで寝間着代わりのTシャツは汗でびしょ濡れになっていた。年に何回あるかないかの熟睡のあとだった。ぼんやりした頭の中で、空腹と濡れたTシャツの不快感が肩を並べていた。

 長年、介護を受けてきた習性でどちらを先にするか、寝ぼけていても反射的に順序を決めるように脳ミソが働きだす。
 ヘルパーさんからすれば、着替えてから洗濯機をまわして食事の準備に取りかかるほうがスムーズではないだろうか。
 朝食だから、そんなに用意にも時間はかからない。食べ終わったころにすすぎを知らせるジングルが鳴れば、効率よく仕事を進められる。

 ところが、現実はうまくいかない。ぼくからすれば、寝たままの着替えはヘルパーさんの技術によって、とんでもなく面倒くさい場合がある。人によっては、朝起きてすぐにパクパク勢いよく食べる様子をみて、信じられないような顔をされる。
 たしかに、歳を重ねるにつれ、とくに朝食の量はお茶碗擦りきりだったり、副菜一品だけだったり、薬しか飲まない日まで現れるようになった。

 このエピソードは、時系列が大事だということに気がついた。
これからはじまる話は、いまから十年足らずの出来事だった。
 
 とにかく、その日は腹がへっていた。さっさと食事をすませて、外出の準備に入りたかった。気持ちがそちらへシフトすると、頭は冴えてくる。
 さっそく、奥の部屋までやってきた若いヘルパーさんに、朝食の用意をお願いした。
 
 ぼくが用意してほしいおかずの中に、冬瓜の煮ものがあった。
 温めるものはなかったので、すぐにお盆の上にお茶碗と副菜が何品か乗せられてきた。
 ベッドに寝たままで食事するぼくには、視覚でおかずを確認することができない。

 基本的に、ぼくは食べる順番をヘルパーさんにおまかせしている。
 食べ進んでいくうちに、すこし腑に落ちない気持ちになった。
 中盤ぐらいになったけれど、冬瓜が口のなかにやってこない。その代わりにお願いしていなかったゴーヤは、何度か登場していた。

 わざと、「冬瓜食べるわ」と言ってみた。
 すると、ゴーヤが箸につままれてきた。
 ぼくの言葉は、聴き取りにくいときがある。
すこし間をおいて、「冬瓜食べるわ」と言ってみた。
 やはり、ゴーヤが目の前に現れた。

 彼に訊ねてみた。
「ひょっとして、冬瓜って知ってるか?」
 すぐに応えてくれた。
「知らなかったんで、台所でスマホで調べて、『これかなぁ』と思って」
 ぼくは声を荒げてしまった。
「なんで、ぼくに聴いてくれへんのや!ぼくとスマホとどっちが信用できるんや!」

 信じてもらっていないことが悲しかったし、機械に頼ろうとする若者がさみしかった。

 その朝がきっかけになって、何でも話せる間柄になれた。
 彼は事業所を辞めるとき、その理由を教えてくれた。
 結婚して、遠くの町で新しい生活をはじめると伝えてくれた。
 うれしかった。

 この間、若いヘルパーさんに買いものをお願いした。品目がたくさんあったのでスマホにメモってもらい、近所のスーパーへ。
「わからんかったら、インフォメーションで聞いたらええしな」

 彼は、頼んだものと別の買いものをしてしまっていた。
 一生懸命さが伝わってきたので、その場はスルーすることにした。

 たくさん頼みすぎて、混乱してしまったのだろうか。ぼくの言葉を聞き間違えたのだろうか。
 それなら、ぼくがメモを確認したり、ある程度、分けて買いに行ってもらったり、いろいろな工夫の余地がある。

 最近、若い人と接していて、すこし気になることがある。
 必要以上に、知らないことに敏感になっているのではないだろうか。
 情報は、簡単にネットで調べることができる。ついつい、自分の中の常識をすべての人に当てはめたくなってしまう。
 インフォメーションへ行くか、通りすがりの店員さんに訊ねてくれたのだろうか?
 
 一人ひとりが行動できる範囲は限られているし、時間が平等だとすれば得られる情報に凸凹がうまれるのは当然のことだろう。
 
 ぼく自身も、知らないことへの偏見を持ってしまったり、情報の多さに振りまわされたり、他人を見下げてしまったり、怯えたりしながら過ごしている。
 
 もし、優越感と劣等感から離れられないのなら、せめてぼくのまわりの一人ひとりがわからないことや失敗を素直に伝えてもらえる人でありたいし、素直に頭を下げられる人でありたいと思う。

 週末には、買い物をお願いしたヘルパーさんが来る。ゆっくり話を聴いてみたい。

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