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高田渡さんのこと

 渡さんを想うとき、自分が障害者であることの幸運に感謝したくなる。
 ぼくが大阪へ出てきてから、渡さんが逝ってしまうまでのおよそ十年間、京都・大阪・神戸でのライブはほぼ皆勤賞だった。

 思い出はつきない。
 ある日、かぶりつきの席で楽しんでいたときのこと、いつものとぼけた語りにのけぞって笑っていると、渡さんはツッコミを入れてくれた。
「お客さん、あんまり笑いすぎると、救急車を呼ばないと・・・」
客席は大爆笑につつまれた。
 ふつう、障害者は笑いのネタにしてもらえない。
うれしかった。すごい人だなあと思った。

 東京で西岡恭蔵さんの連れあいさんのクロちゃんの追悼コンサートがあった。
あの夜も忘れられない。
 台風接近で、新幹線が不通になり、ぼくと友人は大阪へ帰れなくなってしまった。
 丹波の山奥で友人たちとライブを企画させてもらっていた友部さんの好意で、ぼくたちは打ち上げにまぎれ込んだ。
 友部さんがぼくたちを渡さんに紹介すると、「おなかすいてるだろ」と言ってネギトロ巻きを口へ放りこんでもらった。夢みたいだった。

 二千年前後だろうか。一時期、渡さんは舞台でも酔っぱらってろれつが回らなくなったり、ときおりウトウトしたりすることもあった。
 本当に二時間ほどのライブの半分近く、寝てしまったことがあった。
 お客さんは文句を言うどころか、スポットライトの下で「コックリコックリ」する彼に出遭えて、満足しているようだった。
 もちろん、ぼくも興奮してしまった。

 二千五年春、渡さんは逝ってしまう。
その三カ月前、京都のライブを聴きに行った。
 その夜は、大切な会議が予定されていた。
そういうとき、ぼくは体裁のよいウソを押し通した。

 けれど、なぜか、あのときだけは違った。
 ぼくは胸を張っていた。本当にめずらしいことだった。
「ぼくはうたに助けられて生きてこれた。大事なライブがあるから、今度だけは休みたい」

 ぼくは、客席の通路に電動車いすで座っていた。
 休憩のとき、舞台から降りて楽屋へむかう渡さんは、すれ違いながら「また来たね」とぼくの右手を両手でくるんでくれた。
おだやかな表情だった。

 あの日が、ぼくと渡さんとの最後の夜だった。
 ライブはひとりで聴くわけではない。
 でも、渡さんは一人ひとりにうたいかけていたのではないだろうか。
一人ひとりとの間柄を大切にしたかった人ではなかったのではないだろうか。

 もし、渡さんが生きていたら、「フクシマ」に何を感じ、うたっていたのだろうか。富める人と貧しい人がクッキリ分かれた世の中に、それでも淡々と暮らしているのだろうか。

 言葉の間合いを聴かせるミュージシャンがすくなくなった。

 すこしグチっぽくなってしまった。
 でも、もし、あの世があって、渡さんが現世を憶えているとすれば、ぼくのことも記憶の端に残してもらっているかもしれない。

 片想いだったとしても、ぼくの右手にはあの夜の渡さんの両手の温かさが息づいている。

 ぼくは「トンネルの唄」と「アイスクリーム」が、特に好きだ。

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